「愛」に白丸傍点]であるといふ眞理を、私に教へて下さつたのも先生である。たとへ電光のやうな瞬間とはいへ、先生が私のすべて[#「すべて」に傍点]を抱擁して下さつたときの歡喜は口にも筆にも述べつくせないものがある。

 先生は私のためには單なる思想上の先輩ではなくして、私の肉體の疾病にまで手をかけて下さるところの醫師である。人間の『良心』といふものは、單に思想上から生れた信念ではなくして、その人間の肉體から生れるところの一種の奇異な感情である。『良心』といふものは言葉をかへていへば、『神經』である。少なくとも私のやうな人間にとつてはさうである。『良心』は思想であり『神經』は感情であるといふやうに區別することから、驚くべき誤解が生れるのだ。先生はすべてのことを知りぬいてゐる。先生の前には人間は素裸で立たなければならない。ほんとに一人の人間を救ふためには[#「ほんとに一人の人間を救ふためには」に白丸傍点]、その人間の肉體から先に救はなければならないのだ[#「その人間の肉體から先に救はなければならないのだ」に白丸傍点]。思想なんてことは何うでもいいのだ[#「思想なんてことは何うでもいいのだ」に白丸傍点]。
 何故ならば[#「何故ならば」に白丸傍点]、肉體を救ふことはその人間の[#「肉體を救ふことはその人間の」に白丸傍点]『神經[#「神經」に白丸傍点]』を救ふことであり[#「を救ふことであり」に白丸傍点]『良心[#「良心」に白丸傍点]』を救ふことであるから[#「を救ふことであるから」に白丸傍点]。

 ああ、偉大なるドストヱフスキイ先生。
 私はもうこの人のあとさへついて行けばいいのだ。さうすれば遲かれ早かれ、屹度私の行きつくところへ行くことができるのだ。私の青い鳥[#「青い鳥」に白丸傍点]を今度こそほんとに握ることができるのだ。
 私はそれを信じて疑はない。だから私はどんなに苦しくてもがまん[#「がまん」に傍点]する。そして私はもつと苦しまなければならない。もつともつと自分の醜惡をむき出しにしなければならないのだ。

 私の詩『笛』は前述のやうな事實のあつた少し後に出來たものである。これを書いたときには、何といふわけもなくブリキ製の玩具の笛のやうな鋭い細い音色を出す、一種の神經的に光つた物象が、そのときの私の感情をいたいたしく刺激したので、その氣分をそのまま正直に表現したので
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