。ここが先生のみんな[#「みんな」に傍点]とちがふところだつたのだ。
私の神經が、先生に接吻された感覺を起したのは、全く思ひがけない奇蹟的の出來事であつた。何故ならばその當時、私は久しい間、まるで先生の作物には手を觸れずに居たし、先生のことなんかも少しも考へては居なかつたからだ。
けれども此の事實の起つた少し前から、私は例の憂鬱に烈しくなやまされて居た。そして世界のどこかに自分を救つてくれる救世主のあることを夢想して居た。無理にもさう思はずには居られなかつたのだ。こんな工合であるから、私の信仰に入つた動機は、全く理智や思索をたどつた結果でなくして、いつもの詩作のときと同じやうに一種の靈感から感電したものにすぎない。だからこれは私自身にとつても不可解であつて、到底、言葉で説明することの出來ない問題である。
一言にしていへば、私の感情が私を信仰に導いたのであつた。ただそれだけである。
私はそのときから先生を『神』とよんだ。一切の苦惱や罪惡はすつかり償はれて、大きな平和が私の前途を祝福して居るやうに思はれた。
先生に祈りさへすれば、どんな奇蹟でも出來るやうな氣がした。それほど大きな力が湧いてきたのだ。この奇異な感覺は、そのときから三日ばかりもつづいた。この三日の間といふもの私は生れてから經驗のない絶大な幸福をかんじてゐた。
ところが一週間とたたないうちに、白熱した金屬が外氣にふれるやうに、だんだん私の精神状態が舊にかへつて行つた。『神』だと信じた先生が『偉大なる人間』に變つてきた。そして私の白熱した信仰體は、一種の偉人崇拜體に化してしまつた。それはもちろん赤熱したものであつたとはいへ。
私は急に見捨てられた人のやうな寂しさを感じはじめた。それは醉からさめた寂しさでもあつた。その當時、悦びで有頂天になつた自分の姿が、あさましくも馬鹿らしくも思はれた、『あれはやつぱり一種の病熱からみた幻影にすぎなかつたのぢやないか』『あれは何でもない錯覺の類ぢやないのか』『自分は喜劇を演じたのぢやなかつたか』かういふ疑問が私を皮肉的に嘲笑し始めた。私は二度、絶望と懷疑の暗い谷底へ投げこまれてしまつた。
その暗い谷底で、私は髮の毛を握つて齒をくひしめた。もうとても助からない、駄目だ、と言つた。私は正に觀念の眼をとぢようとした。けれども不思議なことには、すべてを投げすてた私の空
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