哲人も往往にして詩を作る。ある觀念のもとに詩を作る。勿論、それ等の詩(?)は、形骸ばかりの死物である。勿論、生命がない。感動がない。
然るに、地上の白痴《ばか》は、群集して禮拜する。白痴の信仰は、感動でなくして、恐怖である。
下|品《ぼん》の感傷とは、新派劇である。中品の感傷とはドストヱフスキイの小説である。上品の感傷とは、十字架上の耶蘇である、佛の涅槃である、あらゆる地上の奇蹟である。
大乘の感傷には[#「大乘の感傷には」に傍点]、時として理性がともなふ[#「時として理性がともなふ」に傍点]。けれども理性が理性として存在する場合には、それは觀念であり、哲學であつて『詩』ではない。
感傷の涅槃にのみ『詩』が生れる。即ち、そこには何等の觀念もない、思想もない、概念もない、象徴のための象徴もない、藝術のための藝術もない。
これはただの『光』である。
七種の繪具の配色は『光』でない。『光』は『色』のすさまじい輪轉である。純一である。炎燃リズムである。そして『光』には『色』がない。
色即是空、空即是色。
藝術の生命は光である[#「藝術の生命は光である」に傍点]。斷じて色ではない[#「斷じて色ではない」に傍点]。
リズムは昇天する。調子は夕闇の草むらで微動する。
我と人との接觸、我と物象との接觸、我と神との接觸、我と我との接觸、何物も接觸にまさる歡喜はない。この大歡喜が自分の藝術である。
自分は神と接觸せんとして反撥される、自分は物象と接觸せんとして反撥される、自分は戀人と接觸せんとして反撥される。その反撥の結果は、何時も何時も、我と我とが固く接觸する。接觸の所産は詩である。
未來、自分は感傷の涅槃にはいる、萬有と大歡喜を以て、接觸することが出來る。現在、及び過去の自分は未成品である。道程である。[#地から2字上げ]――人魚詩社宣言――
遊泳
白日のもと、わが肉體は遊樂し、沒落し、浮びかつ浪を切る。
けふわが生くるは、わが遊戲をして、光り、かつ眞實あらしめんためなり。わが輝やく城の肢體をしてみがきしたしく魚らと淫樂せしめてよ。
奇蹟金銀
祈祷晶玉
海底詠嘆
海上光明
しんしんたる浪路のうへ、祈れば我が手につながれ、あきらかに珊瑚の母體は昇天す。
母體は昇天す、このときみなそこに魚介はしづみ、いつさい
前へ
次へ
全34ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング