む水の音)
[#ここで字下げ終わり]

 小宮氏は言ふ。俳句の修辞的重心となつてるものは、「古池や」の「や」といふ如き切字である。この場合での「や」は、対象としての古池が、ずつと以前からそこに有つたといふ時間的経過と、実在的な恒久観念と、併せてそれに対する作者の主観的感慨とを表示してゐる。句はその切字で分離されて居り、以下の「蛙飛び込む」は、目前の現実的印象を表現してゐる。そしてこの現実的印象としての瞬間が、恒久的実在の「古池」の中に消減することによつて、芭蕉の観念する「無」の静寂観が表現されるのである。然るに宮森氏の訳では、この「や」が!の符号によつて書かれてる。外国語の!は、単なる感歎詞の符号であるから、それによつて原詩の時間的観念や実在的観念を表示することは出来ない。俳句に於ける切字の「や」は、非常に豊富な内容をもつ複雑な言語であつて、外国語に於ける!の如き、単なる感歎詞の符号ではないのであるから、この点の訳が第一に不完全だと言ふのである。
 次に尚ほ小宮氏は、言語の連想性に就いて述べてゐる。即ち例へば「古池」といふ言葉は、日本人の連想からは直ちに古い寺院の池や、庭園などにある閑
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