つて構成させてゐる。「大鴉」からその音響を除いてしまへば、後に何も残るものはなく、無意味な文字の配列にしか過ぎないだらう。然るにどんな訳者が、それを日本語に移すことが出来るだらうか。詩の翻訳の不可能は、この一列によつても解るのである。

 私の昔作つた詩に、「鶏」と題する一篇がある。正直に白状すると、これはポオの翻案であつて、鶏の朝鳴を、とをてくうる[#「とをてくうる」に傍点]、もうるとう[#「もうるとう」に傍点]などの音韻で表象させ、全体にポオの「大鴉」と似たやうな詩想を、似たやうな表現技巧で出さうとした。そこで考へ得られることは、詩は「翻案」さるべきものであつて「翻訳」さるべきものではないといふことである。

「二月三月日遅々。東行西行雲悠々」といふ漢詩を、昔の或る人が和訳して「きさらぎ、やよひ、日のどか。とざま行きこざま行き、雲うらうら。」とした。これは確かに忠実な訳である。しかしこの和訳の詩には芸術としての価値がなく、且つ原詩のあたへる詩的感銘を、少しも表象的に伝へてゐない。所でまた、新古今集に次のやうな和歌がある。「昔思ふ草の庵《いほり》の夜《よる》の雨に涙なそへそ山ほととぎす」これは「盧山雨声草庵中」といふ句のある白楽天の漢詩を日本風に訳したものだと言ふ。この方は翻訳でない。しかしながらこの歌には、芸術として独立した価値があり、且つ原詩の詩的ムードをずつとよく本質的に捉へてゐる。そこで外国語の詩に就いて、読者の真の知らうと欲するところは、詩の個々の原語や逐字訳的の詩想でなくして、原詩そのものが持つてる直接のポエヂイであり、原詩それ自体の詩的ムードなのである。それ故に詩は、むしろ翻案すべきものであつて翻訳すべきものではない。前に逆説して、翻訳は誤訳であるほど好いと言つたのはこの故である。

 訳詩の能事は、単に原詩の想念(思想)を伝へるに止まる。といふ制限を設けることから、翻訳の可能を説く人がある。しかし詩の思念といふものは、詩の言葉の包有してゐる連想や、イメーヂや、韻律やの中にふくまれ、化学的に分析できない有機体となつて生きてるのだから、原詩の文学的構成だけを訳したところで、詩の意味を伝へることは出来やしない。それを伝へる為には、原詩の個々の言葉を解きほごして、煩瑣な註解をつけ加へる外はなく、結局やはり、訳者自身の創作として翻案する以外に手段はないのだ。

 すべての訳詩は、それが翻訳者自身の創作であり、翻案である限りに於て価値を持つてる。換言すれば詩の翻訳者は、原作を自分の中に融化し、自分の芸術的肉体として、細胞化した場合にのみ、初めて訳者としての著作権を有するのである。即ち例へば、ポオの翻訳に於けるボードレエルの場合であつて、これが即ち「名訳」である。そしてすべて名訳は、それ自ら翻訳者の創作であり、正しく翻案に外ならないのだ。

 森鴎外氏の「即興詩人」は、原作よりもずつと善いといふ定評がある。あの訳を読んだ人たちは、案外原作のつまらないのに失望して不平を言つた。「即興詩人は訳ぢやない。あれは鴎外氏の創作なんだ。僕等は鴎外氏にだまされたのだ」と。正にその通り、即興詩人は鴎外氏自身の作つた翻案なのだ。そしてまた、その故にこそ「名訳」なのだ。

 すべての善き翻訳は「創作」である。それ故にボードレエルの訳を通じて、ポオの詩を読んでる人たちは、実にはボードレエルの詩を読んでるので、ポオを読んではないのである。

 堀口大學君は、仏蘭西語の訳詩者として定評がある。ところで堀口君の訳した詩は、ヱルレーヌでも、シモンズでも、コクトオでも、すべてみな堀口君自身の詩であつて、どれを読んでも、一つの同じ堀口的スタイル、一つの同じ堀口的抒情詩の変化に過ぎない。つまり堀口の場合にあつては、すべての訳詩が翻訳であり、自分の創作になつてるからだ。そこで堀口君の訳詩を通して、ヱルレーヌを愛読し、ヱルレーヌに私淑してゐるといふ一青年が、かつて私に自作の詩を示して言つた。「ヱルレーヌの影響があると思ふのですが……」その詩を読み終つた後で私が答へた。「ヱルレーヌの影響なんか一つもない。みんな堀口君の詩の摸倣ばかりだ。」

 かつて日本の詩壇に、象徴派の詩人ヱルハーレンの流行した時代があつた。当時或る若い新進の詩人が、ヱルハーレンの影響を受けてると言ふので評判された。私がその詩を読んで驚いたことには、それが川路柳虹君の詩そつくり[#「そつくり」に傍点]の模倣であつた。そして当時川路君は、ヱルハーレンの詩を盛んに訳してゐたのである。――これほど滑稽な事実はなかつた。

 訳詩を読む人々への注意は、第一に先づその訳者が、詩人として、文学者として、原作者と同等以上、もしくは同等、もしくは最悪の場合に於てすら、雁行する程度の才能を持つてゐるか否かを見るべ
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