きである。訳者に、もしそれだけの資格がなく、原作者との比較に於て、問題にならないヘツポコ詩人であるとすれば、むしろ全然さうした翻訳を読まない方が利口である。なぜなら詩の翻訳は、翻訳者自身の創作であり、翻訳者の情想や、技巧や、スタイルやの、特殊な同化された血液を通してのみ、原詩の精神を透視することが出来るのだから。それ故にまた、訳された原詩の価値は[#「訳された原詩の価値は」に傍点]、常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる[#「常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる」に傍点]。翻訳者にして、もしヘツポコ詩人であるとすれば、原詩の価値もまた、低劣なヘツポコ詩に過ぎないのである。ボードレエルは、ポオを仏蘭西人に正価で売つた。しかしながら他の翻訳者等は、概ね原作者の価値を下落させ、捨値で売りつけてゐるのである。
翻訳の不可能は、もつと広く、根本的の問題としては、必ずしも詩ばかりでなく、文学一般に関係し、さらに尚ほ本質的には、外国文化の移植そのことに関係して来る。一例として Real といふ言葉は、日本語では「現実」と訳されてゐる。したがつてまた Realism は、日本語で「現実主義」と訳されてゐる。しかしながら Real といふ言葉は外国語の意味に於いては、単なる「現実」を指すのでなく、もつと深奥な哲学的の意味、即ち或る「真実のもの」「確実なもの」、架空の幻影や仮象でなくして、正に「実在するもの」といふやうな意味を持つてゐる。然るに日本の文壇では、これを単に、「現実」と訳したことから、日本の所謂レアリズムの文学が、単なる日常生活の事実を書き、無意味な現実を平面的に記述するに止まるところの、所謂「身辺小説」となつてしまつたのである。そしてこんなレアリズムの文学は、西洋に決して無く、一つも見ることが出来ないのである。Naturalism を、「自然主義」と訳したことも、同様にまた誤訳であつて、それが日本の文学を畸形にし、特殊な写生文的小説を流行させた。
真実の意味を言へば、外国語は決して訳することが出来ないのである。単に類似の言葉をもつて、仮りに原語に相当させ、ざつと間に合はせておくにすぎない。然るに日本人は、歴史的に思想を持たない国民であるから、本来哲学的の思想を根とする西洋文学の輸入に際して一もそれに適応する原語がなく、日本語字典のあらゆる言海を探した後で、止む
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