べてのものは、本質に於ての散文であり、プロゼックのものと考えられる。故に詩の本質とするすべてのものは、所詮《しょせん》「夢」という言語の意味に、一切尽きている如く思われる。しかしながら吾人の仕事はこの「夢」という言語の意味が、実に何を概念するかを考えるのである。
 夢とは何だろうか? 夢とは「現在《ザイン》しないもの」へのあこがれ[#「あこがれ」に傍点]であり、理智の因果によって法則されない、自由な世界への飛翔《ひしょう》である。故に夢の世界は悟性の先験的|範疇《はんちゅう》に属してないで、それとはちがった*自由の理法、即ち「感性の意味」に属している。そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在《ザイン》しないものへの憧憬《どうけい》である。されば此処《ここ》に至って、始めて詩の何物たるかが分明して来た。詩とは何ぞや? 詩とは実に主観的態度によって認識されたる[#「詩とは実に主観的態度によって認識されたる」に白丸傍点]、宇宙の一切の存在[#「宇宙の一切の存在」に白丸傍点]である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。
 故に「詩」と「主観」とは、言語に於てイコールであることが解るだろう。すべて主観的なるものは詩であって、客観的なるものは詩でないのだ。しかし吾人は、此処で一つの疑問が提出されることを考えてる。なぜなら本書のずっと前の章(主観と客観)で言ったように、詩それ自体の部門に於て、主観主義と客観主義との対立があるからだ。詩がもし主観と同字義であるならば、詩に於ける客観派と言うものは考えられない。次にまた或る多くの芸術品は、極《きわ》めて客観的なレアリズムでありながら、本質に於て強く詩を感じさせる魅力を持ってる。これはどうしたものだろうか。すべてこれ等のことについて、本篇と次篇の全部にわたり、徐々に解明して行くであろう。

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* カントは「理性」を二部に区分し、因果の理性と自由の理性を対立させた。即ち所謂「純粋理性」と「実践理性」とがこれである。カントの意味では、この自由の理性が倫理にのみ関している。しかしそれが「感情の意味」を指す限り、単なる道徳感ばかりでなく、芸術上の美的理性をも入るべきである。
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     第十章 人生に於ける詩の概観


 詩の本質するものが、それ自ら「主観的精神」であることは前に述べた。ではこの主観的精神、即ち「詩」は人生のどこにあるだろうか。そして此処《ここ》に人生と言う意味は、人間生活の文化に於ける、価値の顕揚されたものについて言うのである。吾人《ごじん》はこの章に於て道徳、芸術、宗教、学術等の一切にわたる詩的精神の所在を概観しよう。
 始めに先《ま》ず、道徳的精神について考えよう。道徳的精神はどんなものでも、本質に於て一種の詩的精神であり、詩という言語の広い所属に含まれてる。なぜなら倫理感の本質は、それ自ら感情としてのイデヤを掲げる、主観的精神に外ならないから。特に就中《なかんずく》、愛に於ける情緒の如きは、恋愛と結んで抒情詩《じょじょうし》の根本のものになっており、人道と結んで主観主義文学――例えば浪漫派など――の主要なモチーヴとなっているほどだ。愛以外の他の道徳感も、すべて人の胸線に響を与え、普遍的なる精神のひろがり[#「ひろがり」に傍点]を感じさせる。即ちすべての倫理感は、本質上での美感に属し、詩と同じき高翔《こうしょう》感や陶酔感やを、その「感情の意味」に於て高調する。此処でついでに、こうした道徳的情操に特色している、二種の異った種別を述べておこう。
 道徳的情操に於て、広く「善」と呼ばれるものには、それぞれの内部的分類がある。例えば「愛」「正」「義」等の者で、多少その倫理的内容を別にし、したがってその情操を異にしている。これ等の中、最も純粋に感情的で、かつ実践的であるものは、言うまでもなく「愛」である。愛には全く論理《ロジック》がなく、その情操は純一に感傷的で、女性的に、柔和であって涙ぐましい。普通に言う「情緒《センチメント》」という美感は、この道徳情操に於て最高潮に表象される。かの人道主義や、他愛主義や、その他の博愛教道徳は、すべて情緒《センチメント》の上に基調している。これに対して「正」や「義」やは、何等かの主義信念の上に立つもので、概して思想的要素を多分に持ってる。
 されば一切の主義と名づけるものは、すべてこの倫理的正義感に出発している。たとい徳に反対する主義――例せば悪魔主義や本能主義――のようなものであっても、本質はやはり、別のユニックな正義を信ずるところの、同じ倫理線の上に立っているので、この本質の点から言うならば、世に無道徳的なるいかなる主義もないわけである。そしてこの正義感の情操は、愛のそれと反対であり、男性的で反撥《はんぱつ》の力に強く、意志を強調し、どこか心を高く、上に高翔させるような思いがある。カントが倫理感の本性を説明して、天にありては輝やく星辰《せいしん》、地にありては不易の善意と言ったのは、その語調さながらに、この種の倫理的情操を明示している。それは愛の情操と並んで、道徳感の二大種目を対立している。(文芸の上に於て、いかにこの対立が現象してくるかは、後に至って解るであろう。)
 かく道徳的情操は、本質に於ての詩的精神である故《ゆえ》に、すべて倫理感を基調としている文芸は、必然に「詩」の観念に取り入れられる。しかしながらより[#「より」に傍点]真の詩を持つものは、道徳でなくして宗教である。なぜなら宗教は、一層「感情の意味」が濃厚であり、イデヤに於ての夢が深く、永遠に実在するものに対するプラトン的思慕の哲学を持っているから。実に宗教の本質は、或る超現在的なものへのあこがれ[#「あこがれ」に傍点]であり、霊魂のイデヤに向う訴え(祈祷《きとう》)である。故に宗教的情操の本質は、真の詩が有する第一義感の要素と符節し、芸術の最も高い精神を表象している。実に詩と宗教とは、本質に於て同じようなものである。ただ異なる点は、一方が表現であって、芸術の批判に属し、一方が行為であって倫理の批判に属するということにある。
 宗教のより思弁的で、主観のより瞑想《めいそう》的なものは、即ち所謂《いわゆる》哲学である。此処で哲学に就いて一言しよう。哲学という語の狭い意味は、科学に対する哲学――認識論や、形而上《けいじじょう》学や、論理学や、倫理学や――を意味している。しかしその語の広い意味は、かかる特殊的の学術でなく、一般に「哲学する精神」をもったところの、すべての思想や表現について言われる。即ちこの関係は、丁度「詩」という言語が、詩学の形式について言われる場合と、内容的に詩的精神を有するところの、一般について言われるのと同じである。そこで広い意味の哲学――即ち哲学的精神を有するもの――とは、すべて本質に於て主観を掲げ、何かの実在的なもの、もしくは普遍原理的なものに突入しようとする思想であって、例えばルッソオ、ゲーテ、ニイチェ、トルストイ等の詩学的人生評論の類が、みなこれに類している。
 しかし哲学という言語の、さらに一層本質的に拡大された範囲に於ては、すべてイデヤを有する主観、及び主観的表現の一切を包括する。即ち例えば、これによって「芭蕉《ばしょう》の哲学」とか「ワグネルの哲学」とか「*浮世絵の哲学」とか言われ、さらに或る芸術や文学やが、哲学を有するか否か等が批判される。この意味でいわれる哲学とは、哲学的精神に於ける究極のもの、即ち「主観性」について言われるのである。故に「哲学がない」と言うことは、主観性の掲げるイデヤがない、即ち本質上の詩がないという意味である。かのゲーテが「詩人は哲学を持たねばならぬ」と言ったのも、勿論《もちろん》この意味を指すのであろう。

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* 浮世絵の哲学は或る頽廃《たいはい》的なる官能の世界に没落し、それと情死しようとするニヒリスティックなエロチシズムで、歌麿《うたまろ》や春信《はるのぶ》が最もよく代表している。
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 最後に、詩的精神の最も遠い極地に於て、科学の没主観な太陽が輝やいている。明白に、だれも知っている如く、科学は主観的精神を排斥し、一切「感情の意味」を殺してしまう。故に科学にかかっては、道徳も宗教も型なしであり、知性の冷酷の眼で批判される。実に科学は、人生から「詩」を抹殺《まっさつ》することにのみ、その意地あしき本務を持ってるように思われる。しかもこの科学的精神が、宇宙の不思議に対する詩的驚異と、未知の超現実を探《さぐ》ろうとする詩感に出発していることは、何という奇妙な矛盾だろう。けだし科学は、詩的精神の最も大胆な反語であって、その否定するところのものから、逆に他の「夢」を創ろうとするのである。故に科学のあるところには、常に飛行機があり、磁力があり、ラジオがあり、電信があり、不断の新しき発明と夢とがある。もし科学が無かったら、人生はいかに退屈にして変化がなく、夢のない単調のものになるであろう。そしてかく考えれば、科学こそは「詩の中の詩」であるとも逆説される。
 かく一般について観察すると、宗教も、道徳も、科学も、人生の価値に於けるあらゆるものが、本質に於て皆「詩」であり、詩的精神の所在として考えられる。実にこの本質上の意味に於て、詩は人生の「価値一般」であり、あらゆる文明が出発し、基調するところの実体である。すくなくとも詩的精神の基調なくして、人間生活の意義は感じられない。それは生活をして生活たらしめ、人間をして人間たらしめ、真や善や美やの高貴に心を向わせるところの、実のヒューマニチイ(人間良心)の本源である。然《しか》り――、詩的精神の本質は実にヒューマニチイである[#「詩的精神の本質は実にヒューマニチイである」に丸傍点]。
 しかしながら吾人は、言語の使用について注意しよう。詩という言語を拡大して、こんな風にまで広茫《こうぼう》とひろげて行ったら、遂に詩の外延は無限に達し、内容のない空無の中でノンセンスとして消滅せねばならないだろう。言語はすべて比較であり、他との関係に於てのみ意味をもつから、詩という言語が正しく言われる範囲に於て、他との関係を切ってしまおう。換言すれば我々は、他のより[#「より」に丸傍点]客観的なるものに対してより[#「より」に丸傍点]主観的なるものを指摘し、その狭い範囲でのみ、詩という言語を限定しよう。すくなくとも第一に、先ず科学を詩の範囲から逐《お》い出してしまおう。次に或る種の哲学――デカルトやヘーゲル――を拒絶しよう。なぜならこれ等のものは、詩というべくあまりに乾燥無味であって、知性の意味が勝ちすぎているから。
 では学術のどの辺から、詩の範囲に入り得るだろうか。これについての限定は、一般に多数の定見が一致している。常識に準ずるのが無難であろう。その世間の定評では、プラトンや、ブルノーや、ニイチェや、ショーペンハウエルや、老子や、荘子や、ベルグソンやが、一般に詩人哲学者と呼ばれている。なぜなら彼等の思想は主観的で、他の学究のように純理的思弁をせず、意味が情趣のある気分によって語られているから、先ずこれ等の思想家は、定評のある如く詩人に属する。そして同時に、詩という言語の拡大され得る広い範囲も、この辺の思想や学術で切っておこう。これより先に延びて行くことは、詩という言語を空無の中に無くしてしまう。
 そこで吾人は、先ず詩の円周する外輪を描き得たわけだ。次にはこれを内に向って、円の中心点を求めてみよう。どこに詩の中心点があるだろうか? 考えるまでもない。この中心点こそ即ち文壇の所謂「詩」で、吾人の抒情詩や叙事詩を指すのだ。故に詩という言語を中心的に考えれば、真に詩というべきは吾人の所謂詩(叙事詩や抒情詩)であって、他のすべての文学や
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