#ここで字下げ終わり]
かくの如く日本語は、本質的に非叙事詩的な国語であって、音律に強弱がなくアクセントがない。故に日本語の詩文にあっては、西洋や支那で発育している、真の形式的な韻文学というものが、始めから全く存在されない。日本の詩歌に於ける様式は、前にも言う通り極めて非詩学的のものであって、厳正には韻文という外国語に、ぴったり適当されないほどのものだ。すくなくとも日本の詩は、西洋の「韻文《バース》」という言語がもっている特殊な修辞的なクラシズムに適応すべく、あまりに素朴で散文的に感じられる。畢竟《ひっきょう》日本の詩は、西洋派の「韻文」という語にぴったり[#「ぴったり」に傍点]しないで、昔から称呼される「謡いもの」に符節するのだ。
そこで「謡いもの」を韻文と言う意味なら、日本にも一種の韻文学が有るわけだ。例えば平家物語等がそうであって、これ等はその内容上から、西洋の叙事詩と類属さるべき文学だろう。しかし平家物語を韻文学として批判するには、その形式のあまりに単調一律であり、韻文価値のないことによって退屈する。あの単調な、どこまで行っても七五調を繰返している文学が、もし韻文と呼ばれ
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