純粋に主観的のものであり、したがってまた感情的のものである。かの俳人が枯淡を尊ぶのは、趣味性の上の薫育であって、詩的精神の涸燥《こそう》を意味しないのは勿論である。詩的精神の情熱が枯れてしまったら、そもそもどこに俳句の表現があり得るか?
されば和歌と俳句とは、その外観の著るしい差別的対照にかかわらず、本質上に於て全く同じ抒情詩であることが解るだろう。即ち俳句は、和歌のより[#「より」に傍点]渋味づけられたもの、錆《さび》づけられたものであって、一種の枯淡趣味の抒情詩に外ならない。しかしながらこの趣味の相違が、一方にはまた俳句をして、和歌と大いに特色を異にするところの、日本的特殊な――あまりに日本的特殊な――文学としてしまっている。吾人は俳句の長所を認め、その世界的に特色しているユニックな詩境を認めるけれども、これによって新日本の文明と芸術とが、いつも伝統の中に彷徨《ほうこう》しており、世界的に進出し得ないのを悲しむのである。なぜならば日本人は、今日|尚《なお》この特殊な俳句詩境に、あまりに深く惑溺《わくでき》しすぎているからである。これについて吾人は、後に章を改めて別に論ずるところが
前へ
次へ
全334ページ中241ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング