象徴主義の徹底した表現と解しており、自然《レアール》に於ける真実の像《すがた》を捉《とら》え、物如の智慧深い描写をすることで、表現の本意が尽きると考えている。もし俳句と称する文学が、実にかくの如きものであるならば、俳句は描写本位の文学である故に、小説等と同じ種目に属する芸術品で、断じて詩と言うべきものではないのだ。しかし吾人の見ている限り、古来のいかなる真の俳句も、悉《ことごと》く皆情象であり、単なる描写本位の句というものは決してない。多くの一般の俳句は、自然の風物に託して主観の情調や気分を詠じているので、純に観照のために観照をしている如き、没情感の冷たい俳句と言うものは見たことがない。例えば蕪村《ぶそん》の
[#天から2字下げ]春の海|終日《ひねもす》のたりのたりかな
 という句の如きも、単にかかる自然を描写しているのでなく、主観に於ける春日長閑《しゅんじつちょうかん》の無為の気分を、対象の中に情調として見ているのである。他のあらゆるすべての俳句が、皆これに同じである。芭蕉《ばしょう》の句
[#天から2字下げ]草の葉をすべるより飛ぶ螢《ほたる》かな
 の如きも、或る種の小説家等が解す
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