、真の意味の芸術至上主義と言うべきものを、詩の世界について想像できない。詩は必ず主観主義の文学でなければならず、したがってまた「生活のための芸術」でなければならない。故に高蹈派の言う意味の反主観や、芸術至上主義やは、おそらく多分、吾人の考える意味のそれとはちがうのだろう。しかしこの弁証は後に廻して、尚高蹈派以後に於ける詩の歴史を、つづいて次章に説かねばならぬ。
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* 自由詩が散文的なほど自由詩だということは、詩を散文の中に低落させると言う意味ではない。律格的な形式美に対して、メロディアスの美を徹底させるという意味である。これについて後に他の章(日本詩壇の現状)で詳説する。
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第九章 象徴派から最近詩派へ
文芸の歴史は反動である。高蹈派の形式主義によって、あまりに重圧されたところの詩壇は、次いで表現の自由を求め、情緒の解放を叫ぶところの、新しきロマンチシズムへの復活が来なければならないだろう。そして実に、早くその反動はやって来た。即ち近代詩壇にエポックした、例の象徴派の運動がこれである。
象徴派の新運動は、その本質上の
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