族的のものである。なぜなら芸術は、俗衆に媚《こ》びるためのものでなく、俗衆を啓蒙《けいもう》し、指導するためのものであるから。
 故に詩と小説との比較に於て、小説を俗衆的であるという意味は、プラトンとソクラテスの比較に於て、後者の人物がよりざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]で平民的に親しみ易《やす》かったという、表面上の気質や趣味性にのみ関すべきで、芸術としての本質上には別問題とすべきである。本質上から言うならば、小説もまた詩と同じく、超俗的の貴族性を持つものであり、またそうでなければならない。実に詩人と小説家との別れるところは、この点の高貴性に関係なく、単なる気風や趣味の上での、人物的な相違にあるのだ。即ち小説家は、概して趣味が世俗的で、気風が世間的にできている。故に彼等は、男女の情事に聴《き》き耳を立て、市井《しせい》の雑聞を面白がり、社交や家庭にもぐり込んで、新聞記者的な観察をする。彼等の小説の題材は、すべて此処から出ているのである。
 これに反して詩人は、概してそうした世俗趣味を持たないため、小説を書こうとしても題材がなく、より超俗的な詩の方に這入ってしまう。故にこの限り
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