這入《はい》り得ない。そこで結局、詩人には真の小説が創作されず、小説家には真の詩が作れないということになる。小説家の作った詩――彼等はよく俳句や歌を作る――は、概して観照に徹しており、修辞が凝り性に行き届いているにかかわらず、どこか或る根本のところで、詩の生命的要素を持たず、音の無い釣鐘《つりがね》という感がする。蓋《けだ》し彼等は、詩を「心情《ハート》」で作らないで、知的な「頭脳《ヘッド》」で作るからだ。反対にまた詩人の書いた小説は、観照が主観の靄《もや》でかすんでいるため、どこか感じが生《なま》ぬるく、真の小説的現実感に徹しない。
かく考えれば詩人と小説家との一致点は、人生観に於ける本質の「詩」だけであって、芸術家としての態度に於ては、全然素質のちがうことが解るであろう。小説の立場は、人生の真実をレアリスチックに見ようとするのであるから、すくなくとも観照上では、主観的なセンチメントを一切排斥せねばならぬ。この点で自然主義は、小説の正に小説すべき典型の規範を教えている。小説が小説たるためには、観照の形式上で、詩から遠く離れるほど好いのである。小説にして詩であるものは、一種の「生《な
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