詩の原理
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)殆《ほとん》ど

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)文壇的|人非人《にんぴにん》として

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おどおど[#「おどおど」に傍点]した

*:注釈記号
 (底本では、直後の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)されば*リズムや韻文やの
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     序


 本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、殆《ほとん》ど約十年間を要した。健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星《むろうさいせい》等が結束した詩の雑誌「感情」の予告に於《おい》て、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。しかも中途にして思考が蹉跌《さてつ》し、前に進むことができなくなった。なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。
 いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き、そして皆中途に棄ててしまった。言いようのない憂鬱《ゆううつ》が、しばしば絶望のどん底から感じられた。しかも狂犬のように執念深く、自分はこの問題に囓《か》じりついていた。あらゆる瘠我慢《やせがまん》の非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心した。そして結局、この書の内容の一部分を、鎌倉の一年間で書き終った。それは『自由詩の原理』と題する部分的の詩論であったが、或る事情から出版が厭《い》やになって、そのまま手許《てもと》に残しておいた。
 大森に移ってきてから、再度全体の整理を始めた。そして最近、終《つい》にこの大部の書物を書き終った。これには『自由詩の原理』を包括したり、そのずっと前に書いて破いた『詩の認識について』も、概要だけを取り入れておいた。そして要するに、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一した。即ちこの書物によって、自分は初めて十年来の重荷をおろし、漸《ようや》く呼吸《いき》がつけたわけだ。何という重苦しい、困難な荷物であったろう。自分はちかって決心した。もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。
 自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。或《あるい》はまた、意外に面白いものであるか知れない。そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。(特に自由詩論に関するものは、多くの人から誤解された。)自分はこれ等の人に対し、一々答解することの煩《はん》を避けた。なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「鍵《かぎ》」が、実に何であったかを気附くであろう。
 日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。それは恐らく、我が国に於ける切支丹《キリシタン》の迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。(確かに吾人《ごじん》は詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門の匂《にお》いを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑《けいべつ》されているのではない。何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜《ぼうとく》され、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔に唾《つばき》かけられているのである。我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的の故《ゆえ》に嘲笑《ちょうしょう》され、文壇的|人非人《にんぴにん》として擯斥《ひんせき》された。
 こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯《ひきょう》なおどおど[#「おどおど」に傍点]した人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。丁度あの切支丹が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々の虐《しい》たげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。そして詩的精神は隠蔽《いんぺい》され、感
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