る。もちろん彼等も、一定の目的地は持ってるだろう。だがそれに達すると達しないとは、主観に於てどうでも好いので、より当面の興味や仕事は、周囲の社会を観察し、人情を調べ、風俗を知り、世態を眺《なが》めることにかかっている。そして実に、旅行そのものの真意義が此処にあるのだ。故に後者は「旅行のための旅行」であり、真の意味の旅行家[#「旅行家」に丸傍点]と言うべきだろう。これに対して前者は、旅行それ自体に意義を認めない旅人であって、人生の慌だしき、性急なる飛脚である。
 この典型に属するものは、多く宗教家、求道者、主義者、哲学者等に見るものであって、芸術家の中には稀れである。なぜならば芸術家とは、芸術すること自身――芸術のための芸術――に、直接の興味をもつ種族だから。実に小説家や戯曲家やは、その最も主観的な作家であってさえも、やはり人生を観察し、風俗を描写し、表現を表現すること自身に於て、当面の直接な興味をもってる。(でなければどんな小説や戯曲も有り得ない。)故に彼等の認識態度は、常に純粋に客観的で、主観の情意から独立している。真に主観的の態度によって、世界を感情の眼で見ているものは、あらゆる文学者の中で、ただ独《ひと》り詩人あるのみである。詩人だけが、言語の正しき意味に於て、純に主観主義者と云うべきである。


     第八章 感情の意味と知性の意味


 自然主義の写実論は、世界をその存在のままに於て、少しも主観に於ける選択をせず、物理的レンズの忠実さで書けと言った。勿論《もちろん》彼等の芸術論は、当時の浪漫派の文学――それは偏狭な道徳観と審美観とで、あまり多くの選択をしすぎた、――に対する反動として言われたもので、その限りに於ての啓蒙《けいもう》的意義を有する。しかしこうした写実論から、その啓蒙的意義を除いて考えたら、世にこれほどセンスの欠けた思想は無かろう。なぜなら主観に於ける選択なくして、いかなる認識も有り得ないから。畢竟《ひっきょう》、認識するということは、この混沌《こんとん》無秩序な宇宙について、主観の趣味や気質から選択しつつ、意味を創造するということに外ならない。
 故《ゆえ》に人間によって見られた世界は、それ自ら「意味としての存在」である。そして「価値」とは、意味の普遍に於ける証価を言う。あらゆる人間文化の意義は、宇宙に於ける意味に於て、真善美の普遍価値を発見することに外ならない。されば道徳と言い、宗教と言い、学術と言い、芸術と言い、一切にわたる人間文化の本質は、結局して意味の最も深いものを、その普遍的証価に於て発見し、人生に一の創造をあたえることにかかっている。
 では意味の最も深いものは何だろうか。主観的に考えれば、意味とは気分、情調である。人が酒に酔ってる時、世界は意味深く感じられる。恋をしている時、世界は色と影とに充ち、到るところに意味深く感じられる。そして道徳や正義感に燃え立ってる時、或《あるい》は宗教的な高い気分になってる時、すべて人生は意味深く、汲《く》めども尽きないものに感じられる。そこで主観に於けるこれ等の気分を、逆に呼び起してくるもの、即ち感情の高空線に音波を伝え、心の電気を誘導させてくれるものは、すべて、意味としての認識価値があるものである。然るにこれ等の気分感情は、すべて心を高翔《こうしょう》させ、浪《なみ》立たせ、何等か普遍に向ってのひろがり[#「ひろがり」に傍点]を感じさせるところのもの、即ち美学上の所謂《いわゆる》「美感」に属するもので、普通の私有財産的な無価値の感情、即ち美学上の所謂「実感」とちがうのである。実感には意味の感なく、私人的にしか価値がないのに、美感は普遍的のものであって、広く万人の胸に響をあたえ、かつ表現への強い衝動を感じさせる。一般に宗教感、倫理感、及び芸術的音楽感の本質が此処《ここ》に存することは言うまでもない。

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 この「実感」という語は、今日の文壇で「体験」とか「生活感」とかいう意味に転用されている。だがこれを当初に使ったのは自然主義で、美学上の原意に用いられていた。即ち当時に言われた「実感で書け」の意味は、美的陶酔のない感情、プロゼックな現実感で書けの意味だった。
 文壇に於ては、今日この言語が転化してしまったけれども、一般の社会に於て、尚《なお》しばしば原意のままで使用されてる。例えば裸体画問題等について、警察官が言う「実感を挑撥《ちょうはつ》する」等がそうである。
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 かく一方から考えると、意味の深さは感情の深さに比例し、より情線に振動をあたえるものほど、より意味の深いものである。然るにまた一方から、客観の立場に於て考える時、意味の深さは認識の深さに比例する。より深く真実にふれ、事物や現象の背後に於て、普遍的
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