術である。
 すべての芸術家等が、人生に対して持ってるイデヤは、この種の生活感から欲情される真の具体的のものである。故にそれは主義者の持ってるそれの如く、議論されたり、説明されたり、概念されたりし得るものでない。主義としてのイデヤは、それ自ら抽象上の観念であり、人為的に区別された戸棚をもち、見出し附のカードをもった思想であるから、いつでも反省に照らし出され、自由に弁証され、定義上に説明することも可能であるが、芸術家の有するイデヤは、かかる無機物の概念でなく、実には分析によって補捉されない有機的の生命感である故に、全く説明もできず、議論もできず、単に気分上の意味として、意識に情念されているのみである。
 故に芸術家は、彼自身のイデヤについて、自ら反省上の自覚を持たない。換言すれば芸術家は、何を人生について情欲し、イデヤしているかを、自分自身に於て意識していないのである。況《いわ》んや他人に向って、かかるイデヤの何物たるかを、全然説明することが不可能である。ただ彼等のイデヤは、その音楽や、絵画や、小説やの、表現に於てのみ語られる。例えば歌麿《うたまろ》の絵画をみて、彼のイデヤがエロチシズムへの艶《なま》めかしき没落であることを、明らかにはっきり[#「はっきり」に傍点]と知り得るように、芸術の場合に於ては、表現のみが真実のイデヤを語る。そしてかく表現され得るものは、決していかなる概念をも有していない。概念を有するイデヤは、もはや具象的のものでなくして抽象であり、したがって「主義」の範疇《はんちゅう》に属している。
 故に芸術、及び芸術家に於けるイデヤは「観念」という言語の文字感に適切しない。観念という文字は、何かしら一の概念を暗示しており、それ自ら抽象観を指示している。然るに芸術のイデヤは、真の具象的のものであるから、こうした言語感に適切せずして、むしろ VISION とか「思い」とかいう語に当っている。そして尚《なお》一層適切には、「夢」という言語が当っている。そこで観念という文字の通りに、夢という文字にイデヤの仮名をつけ「夢《イデヤ》」として考えると、この場合の実体する意味がはっきり[#「はっきり」に傍点]と解ってくる。即ち芸術家の生活は「観念を掲げる生活」でなくして、「夢を持つ生活」なのだ。もしそれが前者だったら、芸術家でなくして主義者になってしまうであろう。
 多
前へ 次へ
全167ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング