に」あるのでなく、彼自身の理想の中に、観念の中に存するのである。言い換えれば、この現実世界は不満足のもの――肯定できないもの――であって、真に考えらるべき世界は、主観の構成する「観念の中に」実在する。(したがって「現実を超越せよ」という標語が言われる。)
この二つの異った思想に於て、読者は直《ただち》に希臘《ギリシャ》哲学の二つの範疇、即ちプラトンとアリストテレスを聯想《れんそう》するであろう。実にプラトンの哲学は、それ自ら芸術上の主観主義を代表し、アリストテレスは客観主義を代表している。即ちプラトンの思想によれば、実在は現実の世界になくして、形而上《けいじじょう》の観念界《イデヤ》に存するのである。故に哲学の思慕は、このイデヤに向ってあこがれ[#「あこがれ」に傍点]、羽ばたき、情熱を駆り立て、郷愁の横笛を吹き鳴らすにある。これに反してアリストテレスは、実在を現実の世界に認識した。彼はプラトンの説を駁《ばく》して真理を「天上」から「下界」におろし、「観念」から「実体」に現実させた。彼は実にレアリズムの創始者で、プラトンの詩的ロマンチシズムと相対の極を代表している。そしてこの二者の思想は、古来から今日に至るまで、尚《なお》一貫した哲学上の両分派で、おそらくはずっと未来にまで、哲学の歴史を貫通する論争の対陣だと言われている。そしてこの二者の議論が尽きない限り、芸術上における二派の論争も止《や》まないのである。
ともあれ吾人《ごじん》は、此処《ここ》に至って「主観主義」と「客観主義」との、芸術上における二派のイズムを分明し得た。要するに二派の相違は、その認定する宇宙の所在が、自我の観念《イデヤ》に於てであるか、もしくは現象界の実体に存するかという、内外両面の区別にすぎない。(これを音楽と絵画について考えてみよ。)然るに観念界に存するものは、常に自我(主観)と考えられ、現象界に存するものは、常に非我(客観)と思惟《しい》されるから、此処に主観派と客観派の名目が生ずるのである。前に他の別の章に於て、自分は心理学上の見解から、所謂《いわゆる》「主観」の何物たるかを述べておいたが、此処に至って実在論的の見地からも、主観の本性を知ることができるのだ。即ち主観とは「観念《イデヤ》」であって、自我の情意が欲求する最高のもの、それのみが真実であり実体であるところの、真の規範されたる自
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