らも、科学者たるべくあまりに人間的で、あまりに意志の弱い心を持っている。表現者であるよりも、彼等はより多く生活者でありたいのだ。そしてそれ故に、芸術至上主義者は詩人でなく、詩人にとっての「英雄《ヒーロー》」であるにすぎない。
要するに詩人は――どんな詩人であっても――所詮して主観的な感情家にすぎないのである。然《しか》り! あまりに詩人的でありすぎることからして、彼等は反動的に主観を抑え、情緒の虐殺を叫ぶのである。しかもそれを叫ぶことによって、逆にまた詩人的に興奮し、一層またセンチメンタルになってくる。故に詩に於ける主観派と客観派は、その表面上の相対にかかわらず、絶対の上位に於て、一の共通した主観を有し、共通したセンチメントを所有している。そしてこの本質上のセンチメントが無かったならば、実に「詩」というべき文学は無いのである。さればニイチェが歎《なげ》いたことは、彼がいかにして詩人であり、詩人を超越し得ないと言うことだった。だが彼がもし詩人でなく、実にヘーゲルの如き学者であり、ビスマルクのような軍人であり、そして真に鉄製の意志を持った独逸人であったならば、始めからどんなツアラトストラも無かったろう。実に詩は現在《ザイン》しないものへの憧憬であり、所有を欲する「自由への欲情」に外ならないから。
故に詩人は、彼が*気質的のセンチメンタリストであるほど、それほど逆に英雄的な叙事詩《エピック》の作家になり得るだろう。詩人が権力感情に高翔するのは、駱駝《らくだ》が獅子《しし》になろうとし、超人が没落によって始まるところの、人間悲劇の希臘《ギリシャ》的序曲である。あらゆる文明の源泉はこの叙事詩《エピック》から始まってくる。故に詩に於けるヒロイズムは、本質的に「悲痛なもの」を情操している。否むしろ、叙事詩《エピック》の真の魅惑は、その悲痛感によって尽きるのである。悲痛感を外にして、いかなる叙事詩の誘惑もありはしない。いかにゲーテのファウストやダンテの神曲やが、人間的弱小の非力感から、或る超人的なものへ飛ぼうとする悲痛な歎息を感じさせるか。そして支那《しな》の詩の多くのものが、沈痛無比な響を以て人生を慷慨《こうがい》悲憤していることぞ。そしてまたその故に、この種の詩ほど真の意味で情緒的で、感傷の深いものがどこにあろうか。
されば叙事詩は言わば「逆説された抒情詩」であり、詩に対
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