るすべてのものを、芸術から拒絶しようとする。――が、果して詩の世界にあるだろうか。もし有ったにしても、かかる種類の文学が、詩としての正しい評価を持ち得るだろうか。実際吾人は、或る種の末期的な詩派に於て、この種の形式韻文を見出《みいだ》している。例えば高蹈派《パルナシアン》の去勢された末期詩人は、彼等の詩派からその懐古的ロマンチックや、厭人《えんじん》病的の厭世感や――それが実に高蹈派の「詩」なのである――を紛失させて、ひとえにその韻律の詩工的完美に走り、詩を造型美術のように建築しようと考えた、換言すれば、彼等は詩を「心情《ハート》」から生むのでなく、知的な「頭脳《ヘッド》」によって製造しようとしたのである。
 かかる種類の文学を、実に詩と言うことができるだろうか。確かに或《あるい》は、それは一種の美であり得るだろう。だがすくなくとも詩ではない。なぜなら「美」なるものの一切が、悉く皆「詩」ではないから。詩は純美というべきものでなくして、より人間的温熱感のある主観を、本質に於て持つべきものだ。すくなくとも吾人は、確信を以て一つのことを断定できる。即ち詩は心情《ハート》から生るべきものであって、機智や趣味だけで意匠される頭脳《ヘッド》のものに属しないと言うことである。故に、詩に於ける形式主義《クラシズム》は、内容として詩的精神、即ち「主観」を持つ限りに於て許さるべきで、主観なき純粋の形式主義は、一種の数学的純美であるとしても、断じて詩と称し得べきものでない。
 では何故に詩人の主観が、かかる知的なクラシズムを、表現に於て選ぶのだろうか。詩が感情の文学であり、主観の南極に於ける芸術でありながら、クラシズムの如き北極的寒烈の形式を選定し、この矛盾した内容と形式とが結婚するのは、いかにしても不可思議なことに思われる。しかしながらこの疑問は、前に他章(形式主義と自由主義)で概略を解説した。即ち詩に於ける形式主義は、本来|叙事詩的《エピカル》の精神とのみ結合する。そしてこの叙事詩的《エピカル》の精神は、彼の貴族的なる権力感情の発翔《はっしょう》から、形式に於てどっしり[#「どっしり」に傍点]したもの、荘重典雅のもの、ストア的に厳格のもの、韻律の規則正しく、骨組のがっしり[#「がっしり」に傍点]したものを欲求することからして、必然にこの結婚が生れるのである。けれども尚《なお》疑問なの
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