第十一章 詩に於ける逆説精神


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 詩に於ける主観派と客観派の対立が、日本では和歌と俳句の関係になっている事は、前章で述べた通りである。次にこの章に於て、西洋の詩に於ける同じ対立の関係を、根本的に解決しようと思っている。けだしこの問題の解決は、詩論の最後に提出さるべき大問題で、詩の最も深い神経に触れるところの、真の根本的の結論である。
 さて西洋の詩にあっては、内容を重んずる一派のものと、形式を重視する一派のものと、二つの系統に別れている。然るに詩の内容は主観に属し、形式は客観に属する故《ゆえ》に、此処《ここ》にまた日本と同じく、主観派と客観派とが対立する。そこで主観派に属するものは、浪漫派や象徴派の詩であって、客観派に属する一派は、古典派や高蹈派の類族である。前者は感情本位の自由主義で、後者は詩学本位の形式主義である。
 この同じ対立は、一方また詩の情操からも考えられる。即ち前に他の章で述べたように、欧洲に於ける詩の歴史は、実に抒情詩《リリック》と叙事詩《エピック》との対立であり、詩情に於ける「情緒的《センチメンタル》なもの」と「権力感情的《ヒロイック》なもの」との、不断に交流する二部曲である。然るに情緒的なものは――浪漫派でも象徴派でも――必然に自由主義の精神に立脚するし、権力感情的な貴族主義のものは――古典派でも高蹈派でも――凡《すべ》て必ず形式主義に傾向している故に、欧洲の詩に於ける主観派と客観派との対立は、それ自ら抒情詩《リリック》と叙事詩《エピック》の対立に外ならない。(故に近代に於ける新形式主義《ネオクラシズム》の諸詩派――未来派、立体派、構成派――等も、言語の本質上の意味に於て、凡て客観派の叙事詩《エピック》に属する。これ等の詩は実に近代的叙事詩《モダーンエピック》とも言うべきだろう。)以下|吾人《ごじん》は、この詩に於ける主観派と客観派、即ち抒情詩と叙事詩の関係を、その内容と形式との二面にわたって、根本から論じ尽そうと思っている。しかしその前に、西洋に於けるこの主観派と客観派の対立が、前章述べた日本の詩のそれと別であり、関係の違っている事を言わねばならぬ。
 日本に於ける主観派と客観派の対立は、和歌と俳句の対立である。故にこの場合の関係では、和歌が抒情詩《リリック》に相当し、俳句が叙事詩《エピック》になるわけである。しか
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