に属している。実に音楽と美術とは、一切芸術の母音であって、あらゆる表現の範疇する両極である。即ち主観主義に属する一切の芸術文学は、音楽の表現に於て典型され、客観主義に属するすべてのものは、美術の表現に於て典型される。故に音楽と美術との比較鑑賞は、それ自ら文芸一般に通じての認識である。
 音楽と美術! 何という著るしい対照だろう、およそ一切の表現中で、これほど対照の著るしく、芸術の南極と北極とを、典型的に規範するものはない。先《ま》ず音楽を聴《き》き給え。あのベートーベンの交響楽《シムホニイ》や、ショパンの郷愁楽《ノクチューン》や、シューベルトの可憐《かれん》な歌謡《リード》や、サン・サーンスの雄大な軍隊行進曲《ミリタリマーチ》やが、いかに情熱の強い魅力で、諸君の感情を煽《あお》ぎたてるか。音楽は人の心に酒精を投じ烈風の中に点火するようなものである。仏蘭西《フランス》革命当時の狂児でなくとも、あのマルセーユの歌を聴いて狂熱し、街路に突進しないものがどこにあろうか。音楽の魅力は酩酊《めいてい》であり、陶酔であり、感傷である。それは人の心を感激の高所に導き、熱風のように狂乱させる。或《あるい》は涙もろくなり、情緒に溺《おぼ》れ、哀切耐えがたくなって、嗚咽《おえつ》する。ニイチェの比喩《ひゆ》を借りれば、音楽こそげにデオニソスである。あの希臘《ギリシャ》的狂暴の、破壊好きの、熱風的の、酩酊の、陶酔の、酒好きの神のデオニソスである。
 これに対して美術は、何という静観的な、落着いた、智慧《ちえ》深い瞳《め》をしている芸術だろう。諸君は音楽会の演奏を聴いた後で、直ちに美術展覧会に行き、あの静かな柔らかい落着いた光線や気分の中を、あちこちと鑑賞しつつ歩いた時、いかに音楽と美術とが、芸術の根本的立場に於て、正反対にまで両極していることを知ったであろう。会場の空気そのものすらが、音楽の演奏では熱しており、聴客が狂気的に感激している。そして美術の展覧会では、静寂として物音もなく、人々は意味深げに、鑑賞の智慧|聡《ざと》い瞳《め》を光らしている。かしこには「熱狂」があり、此処には「静観」があり、一方には「情熱」が燃え、一方には「智慧」が澄んでる。
 実に美術の本質は、対象の本質に突入し、物如の実相を把握しようとするところの、直覚的認識主義の極致である。それは智慧の瞳を鋭どくし、客観の観照
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