》は内界の「心」にあろうと、さらに本質上に於て異なるところは少しもない。なぜならば表現の根本は、作者の物を見る態度に存して、対象それ自体の性質に存しないから。吾人《ごじん》が「主観的」と呼んでいるのは、もとよりかかる皮相の見解でなく、作者の物を見る態度の上で認識が感情の中に融化しており、気分的な情趣となっている態度を言うのだ。故にこの意味で言うならば一切の詩は皆主観的であるべきで、客観主義の詩というものは考えられない。
然るにそれにもかかわらず、浪漫派の詩と高蹈派の詩、また和歌と俳句との間には、どこか或る根本的な点に於て、著るしくちがうところがあるように思われる。単なる皮相の俗解でなく、もっと内奥的な意味に於て、やはり前者は主観的で、後者は客観的であるという感じが、どこかに避けがたくつきまとっている。吾人は進んで、この二派の詩に於ける特殊な異別を、対照上に考えなければならない。しかしながら西洋の詩については、前にも既に説明したし、またこの次の章に於ても、一層根本的に説くところがあるからして、此処では特に、日本の国詩たる和歌と俳句についてのみ、この問題の考察を進めてみよう。
2
和歌と俳句とは、日本の詩に於ける二つの代表的な形式であり、かつ最も著るしいコントラストである。すべての詩を愛する日本人は、この二つの詩に於ける特殊のものを、対照のコントラストに於て知っているだろう。実に和歌と俳句の相違は、詩に於けるディオニソスとアポロの対照である。即ち和歌の詩情は感傷的、感激的で、或るパッショネートな、情火の燃えあがっているものを感じさせる。これに反して俳句は、静かに落着いて物を凝視し、自然の底にある何物かを探《さぐ》ろうとする如き、智慧《ちえ》深い観照の眼をもっている。また和歌のあたえる陶酔は、情緒的でメロディアスのものであるのに、俳句の魅惑はこれとちがって、もっと枯淡的に澄み入っている、含蓄の深い情趣である。
されば和歌と俳句の相違は、詩に於ける音楽と美術の対照であり、また浪漫派と写実派の対照である。前者はロマンチックで感傷的に行こうとし、後者はレアリスチックで静観的に行こうとする。しかも吾人《ごじん》の知っている限り、俳句の如く観照的で、俳句の如くレアリスチックの詩は、世界に殆《ほとん》ど比類がない。西洋の詩や支那《しな》の詩やは、どんな静観的
前へ
次へ
全167ページ中118ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング