いまいぼうばく》としたものを排斥して、ひとえに判然明白たる、理路整然たる詩を尊んだ。
 高蹈派の詩人たちは、その詩派の名目が示す如く、常に高蹈的な超俗の態度を取り、デモクラチックの思想を軽蔑して、時流の外に高く持すことを誇っていた。彼等は実に、近代の女性化主義《フェミニズム》の文化に於ける、正面からの反動主義者で、仮面を被《かぶ》らない正直な――或《あるい》は馬鹿な――真の正銘の貴族主義者の一族だった。何よりも彼等はジャーナリズムを、時流に属するものを憎悪した。そして遠く歴史の過去を慕い、思いを中世の懐古に馳《は》せた。特にその巨匠ルコント・ド・リール等は、現在的なる人間生活の本質を憎悪し、一切の宇宙を否定しようとするところの、ショーペンハウエル的|厭人《えんじん》感のニヒリズムから、毒々しい挑戦《ちょうせん》的の態度に於て、浪漫派の感傷的なる愛や人道主義やを、梅毒のように不潔視した。実に高蹈派《パルナシアン》の貴族等は、詩から一切の情緒を排斥し、人情を虐殺することに痛快したのだ。
 こうした高蹈派の態度は、正に詩に於ける自然主義の態度である。ただ一つ異なるところは自然主義が社会性を重要視し、現実生活を正視しようとしたに反し、高蹈派は人間社会を白眼視して、真の孤独的な貴族主義に徹入し、独善生活の雲の中に入り込んでしまったことだ。したがって自然主義の憎悪は「人生」に向って行き、高蹈派の憎悪は「宇宙の存在」そのものの本性に向って行った。即ち小説が科学的に行くところを、詩人は哲学的に行ったのである。そしてまたこの相違から、自然派が「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」の両角的矛盾に陥り、主張と作品との奇怪な錯覚をしているときに、一方の高蹈派《パルナシアン》は徹底して芸術至上主義を標号《ひょうごう》した。
 高蹈派はまた、詩から一切の主観を拒絶し、純粋の客観主義を標号したことで、小説の自然主義と根本的に一致する。実に高蹈派と自然主義とは、芸術の本質点で聯盟《れんめい》されたる、浪漫派への正面攻撃の敵であったのだ。しかしながら吾人《ごじん》は、こうした抗争詩派の主張に対して、一つの納得できない疑惑を感ずる。なぜならば詩の本質は、上来説いて来たように主観的のものであるから。吾人はいかにしても、高蹈派の説く如き反主観の詩、客観主義の詩というものを考えられない。そして同様にまた
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