ない。故に浪漫派は、実に近代詩の開祖であって、今日のあらゆる詩派に於ける母音のものは、すべて此処《ここ》に胚種《はいしゅ》している。しかしながら浪漫派の運動は単に詩壇の一局部にのみ、小波動を以て興ったのでなく、実に文学と芸術と、社会思潮の全般にわたって興ったところの、空前の花々しき大運動だった。それはルッソオによって刺激された、仏蘭西《フランス》革命の続きであって、資本主義文化の初頭に於ける自由主義の目ざましい凱歌《がいか》だった。(自由主義と女性化主義《フェミニズム》とは、必然にイコールであることに注意せよ。)
されば浪漫派の運動は、貴族主義に対する平民主義の主張であり、形式主義に対する自由主義の絶叫だった。それは芸術と文化に於ける、一切の権力感情を排斥し、すべての叙事詩的《エピカル》なものを抑圧した。近代の恋愛を主とする抒情詩的《リリカル》な小説が、一時に新しい文学的勢力を得て、古典の形式韻文を駆逐したのもこの時だった。此処でついでに言っておくが、古代に於て散文が軽蔑《けいべつ》視され、近代に至って逆にそれが優勢になってきたのは、実に新時代の自由主義が、韻文の如き形式主義の文学に反感し、より自由で平民的な散文に趣味を転じて来たからである。そして自由詩の本質に於ける精神が、同じくこの散文時代の趣味性を表象している。故にこの意味から言うならば自由詩は*散文的であるほど――即ち非律格的であるほど――真に本質的に自由詩なのである。
さて浪漫派の時代思潮は、過去の貴族文明への反感からして、一切の叙事詩的《エピカル》な精神を抑圧したが、これに対する反動の逆流は、当然また興らなければならなかった。そして実にこの反動は、芸術のあらゆる方面から興ったのである。しかしこれ等には、単に詩と小説との文学につき、反動の歴史を見れば足りる。先《ま》ず小説から始めて行こう。小説に於ける浪漫派の反動思潮は、人の知る如く例の自然主義である。この仏蘭西に興った自然派の文学主張が、本質的に何を意欲し、何を特色したものであるかは、既に他の章でしばしば詳説した通りである。即ちそれは「主観を否定した主観主義」の文学で、当時の情熱的なる人間主義者《ヒューマニスト》が、浪漫派の人道的センチメンタリズムに叛逆《はんぎゃく》し、愛や情緒やの虐殺を叫んだところの、一の抑圧されたる叙事詩精神《エピックハート》の爆
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