るからである。では彼等の定律詩人が感じている、特殊な表現的満足感は何だろうか? けだし彼等は、詩の自由主義に不満して、*形式主義の精神に美を感じているからである。
さればこの質問は、必ずしも今日の詩壇に起った問題でなく、ずっと昔、未だ自由詩などというものがなかった時から、既に古くあった問題である。なぜなら昔に於ても、韻文中での形式派と自由派とは、同じ精神で対立していたから。たとえば古典の詩で、叙事詩と抒情詩《じょじょうし》とがそうであった。叙事詩も抒情詩も、昔にあっては共にひとしく定形詩で、詩学の定める法則を遵守していたにかかわらず、概して叙事詩は形式主義の韻文で、押韻の法則が特別に厳重だった。そして反対に抒情詩は、この点が寛大であり、比較上での自由主義に精神していた。
また近代の詩壇にあっても、既に自由詩以前に於て、この同じ精神が対立していた。たとえば浪漫派や象徴派の詩人等は、概して自由主義の立場に居り、詩学上の煩瑣な拘束を嫌《きら》っていた。反対に高蹈派の詩人等は、典型的なる形式主義の韻文を尊重していた。最近に至って、自由詩それ自体の部門にすら、またこの二派の対立があることは、我が国今日の詩壇を見ても解るだろう。日本に於ける最近詩壇は、後に他の章で詳説する如き事情によって、一も定律詩が存在せず、すべて皆自由詩のみであるけれども、そこにはまた比較上での形式主義と自由主義とが対立し、同じ自由詩の中で別れている。
されば上述の質問は、結局して形式主義と自由主義との、美の二大|範疇《はんちゅう》を決定すべき、根本の問題に触れねばならない。そしてこの問題を釈《と》かない中は、吾人《ごじん》は未だ詩について、真に何事の知識も持たないのである。なぜなら詩の表現は、実にこの矛盾した反対の精神が、機微の黙約するところにかかっているから。そもそも形式主義の精神するところはどこにあるか。自由主義の根拠するところはどこにあるか。以下これについて考察を進めて行こう。
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* 芸術の形式は内容の反映である故に、本来言えば「形式主義」とか「内容主義」とかの観念は、芸術上に於てノンセンスである。然るにこうした言語が存在するのは、この場合で考えられている「形式」が一般に於ける「表現そのもの」を指すのでなく、何等かの数理的法則によって規定されているところの、特殊なクラシ
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