し彼等にあっては、詩操の宗教感について言われる象徴と、表現の観照について言われる象徴とが、認識不足の漠然たる霧の中で、曖昧に混同していた為である。しかしながらとにかく、彼等は近代詩に象徴の自覚をあたえ、爾後《じご》の詩派に感化と暗示とをあたえたことで、永く記念さるべき功績を残している。故に彼等の「象徴派」は亡《ほろ》びても、象徴主義そのものが不易であること、あたかも「浪漫派」と浪漫主義の関係に同じである。
 最後に注意すべきは、最近の新しい小説(特に仏蘭西《フランス》等の短篇小説)が、描写に於て著るしく象徴的になって来たことである。一方で詩が自由詩となった為に、詩と小説とが極めて接近し、外観に於て殆《ほとん》ど区別がつかないようになってきた。しかしながら区別は、やはり判然とせねばならぬ。詩は単に象徴の故に詩でなくして[#「詩は単に象徴の故に詩でなくして」に丸傍点]、情象の故に詩なのである[#「情象の故に詩なのである」に丸傍点]。
 丁寧に言えば、象徴が知的の「頭脳《ヘッド》」によってされないで、主観の感情によって温熱されたる、心情《ハート》の意味としてされねばならない。そうでなく、象徴が純に客観的の観照によってされるならば、それは小説に属して詩に属さない。新しき文学の批判にあっては、この一つの線を判然とする必要がある。


     第六章 形式主義と自由主義


 詩に於ては、音律が重大の要素であり、それが殆《ほとん》ど詩的形式の骨組をすることは、前に既に述べた通りだ。しかし詩が音律を要求するのは、感情の強き表出を求めたためで、必ずしも拍節形式のための要求ではない。もちろん、言語の発想はそれが「音」として響く限り、大体に於て音楽の原則に支配さるべく、必然に決定されているには違いないが、所詮《しょせん》文学は文学である故《ゆえ》に、言語が必ずしも音楽の規約と一致し、楽典の定める韻律の形式と、常に機械的に規則正しく符節するということは考え得ない。もしかかる符節があるとすれば、それはむしろ偶然であり、百に一の場合と言わねばならぬ。
 然るに不思議なことは、古今すべての詩の約束が、この偶然の場合を法則とし、音楽に於ける韻律の形式を、そのまま正則に言語に移して、所謂《いわゆる》「韻文」を成形していることである。実に歴史の長い間、詩はすべて韻文の形で書かれ、この形式の故にのみ
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