の客観的存在として描写している。また自我の本質は、生活上に記憶されてる経験でもないだろう。なぜなら多くの小説家等は、自己の生活経験を題材として、極《きわ》めて客観的態度の描写をしている。
 では自我とは何だろうか? すくなくとも心理上に於て意識される、自我の本質は何であろうか? この困難な大問題に対しては、おそらく何人も、容易に答えることができないだろう。然るに幸いにも、近代の大心理学者ウイリアム・ゼームスが、これに対して判然たる解決をし、有名な答解をあたえている。曰《いわ》く一つの同じ寝室に、太郎と次郎が一所に寝ている。朝、太郎が目を覚《さ》ました時、いかにして自分の記憶を、次郎のそれと区別するか。けだし自我の意識は「温感」であり、或る親しみのある、ぬくらみ[#「ぬくらみ」に傍点]の感であるのに、非我の記憶は「冷感」であり、どこかよそよそ[#「よそよそ」に傍点]しく、肌につかない感じがする。自我意識は即ち温熱の感であると。(ゼームス「意識の流れ」)
 このゼームスの解説から、吾人は始めて、意識に於ける、自我の本体を自覚し得る。自我とは実に温熱の感であり、非我とはそれの伴わない、冷たくよそよそ[#「よそよそ」に傍点]しい感である。故にすべて温熱の感の伴うものは、吾人の言語に於て「主観的」と呼ばれるのである。然るに温熱の感の所在は、それ自ら感情(意志を含めて)である故に、すべて主観的態度と言われるものは、必然に感情的態度を意味している。反対に情味のとぼしく、知的要素に於て克《か》ったものは、その冷感の故に客観的態度と言われる。例えば可憐《かれん》な小動物が苛《いじ》められているのを見て、哀憐《あいれん》の情を催し、感傷的な態度で見ている人は、その態度に於て主観的だと言われる。これに反して無関心の態度を取り、冷静な知的の眼でそれを見ている人は、客観的な観察をしていると考えられる。
 そこで思いつかれるのは、こうして言語の解釈されてる、一般のありふれた様式である。一般に人々はこう考えている。主観とは自我に執する態度であり、客観とは自我を離れる態度であると。吾人はだれもこの思想を、普通に当然のことに思っている。だが考えてみれば、世の中にこれほど奇妙な思想はなかろう。なぜといって人間が分身術の魔法でも知らない限りは、自分で自分から離れるなどいう奇態な業《わざ》が、実際にできる
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