がしている如く、人生の現象や事件に於ける、部分的な描写を無数に集め、それの綜合から一篇の小説的意味を表出しようと考えても、決してそれは完全に成功しない。すくなくともこうした手段は、次に説く方法に比べれば、芸術として極《きわ》めて幼稚な――したがって効果の弱い――認識様式にすぎないのである。より徹底した、真の芸術的なる認識手段は、事物を部分について観察せずして、全体から一度に、気分的な意味として直観してしまうのである。言い換えれば、物の写実的なる形体について見ないで、かかる感覚的形体相の上位にある、全体としての意味の直感、即ち形相以上、形以上のメタフィジックに突入するのだ。
 この形而上学的認識への突入を、吾人は普通に「象徴」と称している。されば象徴こそは、実にあらゆる芸術の認識的極致であって、レアリズムもロマンチシズムも一切の表現の登り得る山頂は此処である。西洋の写実主義的なる芸術家等が、漸《ようや》くこの秘密に触れ、表現の山頂的な意味を知り始めたのは、実に尚最近のことに属している。然るに独《ひと》り不思議なことは、日本に於て早く昔から、象徴が発達していたということである。実に日本人は、西洋の詩人が近代に至って始めて到達した真の主観的|抒情詩《じょじょうし》を、開国三千年の昔に於て発達させ、西洋人が最後に登り得た象徴の絶対境へ、逆に昔から平気で坐り込んでいる民族である。(丁度西洋と日本では、山と谷があべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆転している。)
 此処で象徴の本意を明らかにするため、その代表的な日本の芸術について、大略の説明をあたえてみよう。例えば能がそうである。日本の能は、西洋の写実的なドラマや活動写真の類とは、根本から表現の精神がちがっている。西洋の演劇は舞台に於て、背景にも、人物にも、挙動にも、事実をそのまま写実的に映している。甚《はなは》だしきは、舞台に実物の馬を走らせたりする。然るに日本の能にあっては、かかる形体上の写実を見ないで、意味が全体として感じらるべく、第一義感的なものを強調する。例えば能にあっては、歩行者が写実的な歩調をしないで、歩行それ自身の印象と気分をあたえるべき、或る芸術的な「歩く人」を造形している。また能に於ける「悲しむ人」は、形体の上で涙や悲歎《ひたん》を見せるのでなく、意味としての気分の上で、悲哀の心境を現わすのである。これをかの
前へ 次へ
全167ページ中100ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング