おこう。
 さて象徴というこの言語は、一方また表現上から、観照のメタフィジックについても言われている。本章に於て、吾人《ごじん》は主としてこの方面から、象徴の語意を明らかに解説したいと思っている。なぜなら象徴の解説は、従来多くの人によって、この方面から試みられているにかかわらず、一も満足をあたえるものがないからだ。単に多くの人々は、象徴を以て一種の「比喩《ひゆ》」「暗示」「寓意《ぐうい》」の類と解している。もちろんこの解説は、必しも誤っているわけではない。だが極《きわ》めて浅薄であり、少しも象徴芸術の本質に触れていない。そして一層|滑稽《こっけい》なのは、象徴を以て曖昧《あいまい》朦朧とさえ解釈している。(実に仏蘭西の象徴派がそうであった。)かかる見当ちがいの妄見《もうけん》や、皮相な上ッつらの辞書的俗解を一掃して、吾人は此処に「象徴そのもの」の本質観を、だれにも解りよく、判然明白に解説しようと考えている。

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「認識する」ということは、「意味を掴《つか》む」ということである。そして意味には「感情の意味」と「知性の意味」の二つがあり、芸術の世界に於て相対していることは前に述べた。しかしその何《いず》れにせよ、認識することなしに芸術は有り得ない。なぜなら芸術は表現であり、そして表現は観照なしに有り得ないから。
 では認識するということ、即ち「意味を掴む」ということは、一体どういうことなのだろうか? これについて答えることは、カントの認識論に譲っておこう。要するに意味の世界は、人間の先験的主観による、理性の範疇《はんちゅう》によって創造されるものである。しかしながら認識の様式には、二つの異った方法がある。一は部分について見る仕方で、一は全体について見る仕方である。哲学上に於ては、この前者を抽象的認識と言い、後者を直感的認識と称している。だが芸術家の住む直感的観照の世界に於ても、また本質に於てこれと同じ二つの異った認識の様式があるのである。例えば、小説家の観照は前者に属し、詩人の直感は後者に属する。以下この認識様式の相違について、少しく説明を試みよう。
 自然主義の教えた美学は、世界をその有るがままの姿に於て、物理的没主観の写実をせよと言う。かかる写実主義の愚劣であり、啓蒙《けいもう》としての外に意味がないことは、前にも既に説いたけれども、尚《なお》も
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