に至って衰滅したかということである。あの上古から近世の始めにかけて、マンモスや怪竜の群の如く、地球上を横行していた巨大な長篇韻文が、最近二三世紀の間にかけて、一時に没落してしまったと言うことは、たしかに夢のような天変地異を感じさせる。何等かそこには、深い特別の事情が無ければならない。そして実際、そこには十分の事情と原因が存するのである。しかしその最も根本的なる、真の第一原因たる事情については、後に他の章で説明しよう。此処では故意にそれを除いて、他のより[#「より」に傍点]表面的なる誤った俗見について啓蒙《けいもう》しよう。
明白に、だれの眼にも見えている事は、近代に於ける散文の発達である。実に韻文の凋落と散文の発達とは、近代の歴史に於て逆比例を示している。昔にあっては見る影もなく、叙事詩や劇詩の繁栄の影にかくれて、卑陋《ひろう》な賤民《せんみん》扱いにされていた小説等の散文学が、最近十八世紀末葉以来、一時に急速な勢力を得て、今や却《かえ》って昔の貴族が、新しい平民の為に慴伏《しょうふく》され、文壇の門外に叩《たた》き出された。何故だろうか? 一般に解説されているところによれば、この世界変動の真原因は、文明の進歩によって、人間が科学的になり、理智的になった為だと言われる。理智的の人間は、すべてに於て客観的なる、真実本位のレアリスチックな文学を好むであろう。叙事詩の如き浪漫的で情象主義の文学は、かかる理智的な科学時代に、凋落せざるを得ないというのだ。
しかしながらこの解釈は、果して合理的であるだろうか。もし実にそうだとすれば、近代に於て凋落すべき悲運のものは、独《ひと》りあに叙事詩や劇詩のみでない、音楽や、歌劇や、舞踊の如き、一切の情象主義の芸術は、その非レアリスチックなことによって、悉《ことごと》く皆没落せざるを得ないだろう。然るに音楽やバレーの如きは、近代に於て益々《ますます》栄えたのみならず、古代中世のものに比して、却って著るしく感情的になり、浪漫的、幻想的に傾向して来た。(昔の音楽が極《きわ》めて理智的なものであることは前に述べた。)
のみならず近代の短篇詩は、浪漫派を始めとして、著るしく皆感情的で、昔の叙事詩等のものに比し、却ってその点で特色している。故に上述のような解説が、皮相な謬見《びゅうけん》にすぎないことは明らかである。けだし人間に於ける知性と情
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