全般に行き届いた、真の判然明白なる答案があるように、有るべき筈《はず》だと感じられる。そしてこの解答が、もし完全にできるならば、その時始めて吾人は、真に詩的表現の何物たるかを、まちがい[#「まちがい」に傍点]なく正確に、かつ完全に知り得たのである。さらに進んで、徹底的に考を進めて行こう。
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* 最近の世界詩壇は著るしく散文的《プロゼック》になり、唯物論的になり、機械観的になり、科学的にさえも傾向している。これ表面には、詩の散文的没落を意味する如く思われるが、実には何の心配もないのである。なぜならこうしたものは、すべて詩の題材に属していて、詩の本質的精神に関係していないからだ。換言すれば、それらの唯物界や機械界やは、詩人によって新しく発見された詩美であって、趣味としての選択に属している。然るに趣味(即ち芸術の題材)は、詩の本質的精神とは関係なく、時代によって常に流動変化するものである。即ちプロゼックなものは流行であって、本質に於けるものは不易である故、詩は永久にその精神を没落しない。芭蕉《ばしょう》はこの真理を言明するため、有名な「不易流行」の標語を作った。詩人は不易流行でなければいけない。(ついでながら言っておくが、近頃我が文壇で言われるマルクス的文学論が、芸術に於ける流行性と不易性とを、認識の蒙昧《もうまい》から錯覚している。芸術の不易性は個人主義で、流行だけが社会主義になるのである。)
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第三章 描写と情象
人間の発想の様式は、原則として三種しかない。「記述」と「説明」と、そして「表現」である。記述とは或る事柄を述べるもので、学術では歴史がこれを代表している。説明は弁証や解義に関するもので、一般の抽象的論文、及び多くの哲学科学がこれに属する。故《ゆえ》に記述と説明とは、共に広義の学術に属するもので、芸術に属するものでない。芸術に属するものは、最後の表現あるのみである。もちろん広い意味での芸術――例えば文学的評論等――には、記述や説明に類するものが混じているが、すくなくとも純粋の意味で言われる芸術品(創作)には、まったくそうした要素がない。芸術は常に表現の様式で発想される。
そこで表現の形式には、音楽があり、美術があり、舞踊があり、演劇があり、文学があり、実に種々雑多であるけれども、これを本質に
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