れ等の文学は、単に「詩の形式を借りた」ところの、別種の者に属する如く思われる。
それ故《ゆえ》に詩の形式は、外部から借用されたものでなくして、内部から生み出されたところの、必然のものでなければならない。換言すれば詩とは、詩的な内容が詩的の形式を取ったもの[#「詩的な内容が詩的の形式を取ったもの」に丸傍点]でなければならない。では「詩的な内容」とは何だろうか。何がそもそも詩的であり、何が詩的でないだろうか? この問に答える前に、吾人は世俗の誤見に対して、逆に反駁《はんばく》しておかねばならぬ。なぜなら通俗の見解は、しばしば詩人を以て花鳥風月の徒と解し、吾人を一種の風流扱いにするからだ。実に我々詩人の心外に堪えないことは、今日の文壇や雑誌社すらが、詩の何物たるかを全く知らず、吾人に嘱するに自然の風物吟詠や、四季の変化に際する美文的随筆の類を以てすることである。かつて我々の昔の詩人は、好んでかかる風流閑雅の趣味を愛し、自然の詠吟を事としていた。だが今日の時代に於ける僕等の詩人が、いつまで同じことを繰返す義務がどこにあるか。そもそも世間は、あまりに日本人的なる、あまりに俳諧《はいかい》的なる「詩人」の観念から、いつまでたったら僕等を解放してくれるのか。
さて「詩的なもの」は何だろうか? これについてはずっと前に、既に他の章で一言しておいた。即ち何が詩的であるかは、全く個人の趣味によって決定する。そこで昔の日本詩人は、季節の変化や自然の風物を詩的と感じた。だが今日の詩人たちは、社会や人生の多方面から、無限に変った詩的のものを発見している。例えば或る社会的な詩人たちは酒場や、淫売窟《いんばいくつ》や、銀行や、工場や、機械や、ギロチンや、軍隊や、暴動やから、彼等の詩的な興奮を経験して、そこに新しい詩材を求めている。そして他のより[#「より」に傍点]瞑想《めいそう》的な詩人たちは、人生や宇宙の意義について特殊な詩的なものを哲学的に観念している。
されば詩的の本質は、個人の側にあって物の側に存しない。もし見る人が見るならば、宇宙に於ける一切の事物や現象やは、悉《ことごと》く皆詩的なものに感じられそうでないものは一も無かろう。実に詩人の為《な》すべきことは、人の無趣味とし、殺風景とし、俗悪とし、*プロゼックとするものに就いてさえ、新しき詩美を発見し、詩の世界を豊當にして行くことに
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