すくなくともこの意味で、詩は小説に比して高蹈的だ。けれども「貴族的」「俗衆的」という言語が、この場合に何を意味しているかを、吾人は常識学に於て知らねばならない。例をあげてみよう。ソクラテスとプラトンとの比較に於て、前者は平民的だと言われ、後者は貴族的だと言われる。なぜならソクラテスは、街路に立ってだれにでも話しかけ、少しも権式ぶらないざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]の人物なのに、プラトンはアカデミイの学院に閉じこもって、典雅に身を持していた人物だから。
そこでこの定評は当っているか、もし哲学者としての態度で言えば、ソクラテスは決して俗衆的でなく、むしろプラトン以上に貴族的だ。実にあの義人哲学者は、すべての俗衆的愚劣のもの、俗衆的先入見を憎悪《ぞうお》し、これによって獄に毒死されたのである。故にこの態度で言うならば、彼もまたプラトンと共に貴族的(超俗衆的)の人物である。そしてもしこの意味なら、此処に「貴族的」と言う言葉は、耶蘇《ヤソ》にも、仏陀《ぶつだ》にも、トルストイにも、一切の義人と生活者に共通し、その人格的本質の特色になるだろう。のみならず芸術そのものの目的が、本来また貴族的のものである。なぜなら芸術は、俗衆に媚《こ》びるためのものでなく、俗衆を啓蒙《けいもう》し、指導するためのものであるから。
故に詩と小説との比較に於て、小説を俗衆的であるという意味は、プラトンとソクラテスの比較に於て、後者の人物がよりざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]で平民的に親しみ易《やす》かったという、表面上の気質や趣味性にのみ関すべきで、芸術としての本質上には別問題とすべきである。本質上から言うならば、小説もまた詩と同じく、超俗的の貴族性を持つものであり、またそうでなければならない。実に詩人と小説家との別れるところは、この点の高貴性に関係なく、単なる気風や趣味の上での、人物的な相違にあるのだ。即ち小説家は、概して趣味が世俗的で、気風が世間的にできている。故に彼等は、男女の情事に聴《き》き耳を立て、市井《しせい》の雑聞を面白がり、社交や家庭にもぐり込んで、新聞記者的な観察をする。彼等の小説の題材は、すべて此処から出ているのである。
これに反して詩人は、概してそうした世俗趣味を持たないため、小説を書こうとしても題材がなく、より超俗的な詩の方に這入ってしまう。故にこの限り
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