詩集〈月に吠える〉全篇
従兄 萩原栄次氏に捧ぐ
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)縦《よ》しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても

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(例)何|人《ぴと》も

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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画に
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 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。それは何と云つても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保つてゆかれる愛だ。此の三人の生命を通じ、縦《よ》しそこにそれぞれ天稟の相違はあつても、何と云つてもおのづからひとつ流の交感がある。私は君達を思ふ時、いつでも同じ泉の底から更に新らしく湧き出してくる水の清《すず》しさを感ずる。限りなき親しさと驚きの眼を以て私は君達のよろこびとかなしみとを理会する。さうして以心伝心に同じ哀憐の情が三人の上に益々深められてゆくのを感ずる。それは互の胸の奥底に直接に互の手を触れ得るたつた一つの尊いものである。

 私は君をよく知つてゐる。さうして室生君を。さうして君達の詩とその詩の生ひたちとをよく知つてゐる。『朱欒』のむかしから親しく君達は私に君達の心を開いて呉れた。いい意味に於て其後もわれわれの心の交流は常住新鮮であつた。恐らく今後に於ても。それは廻り澄む三つの独楽が今や将に相触れむとする刹那の静謐である。そこには限りの知られぬをののきがある。無論三つの生命は確実に三つの据りを保つてゐなければならぬ。然るのちにそれぞれ澄みきるのである。微妙な接吻がそののちに来《く》る。同じ単純と誠実とを以て。而も互の動悸を聴きわけるほどの澄徹さを以て。幸に君達の生命も玲瓏乎としてゐる。

 室生君と同じく君も亦生れた詩人の一人である事は誰も否むわけにはゆくまい。私は信ずる。さうして君の異常な神経と感情の所有者である事も。譬へばそれは憂鬱な香水に深く涵した剃刀である。而もその予覚は常に来る可き悲劇に向て顫へてゐる。然しそれは恐らく凶悪自身の為に使用されると云ふよりも、凶悪に対する自衛、若くは自分自身に向けらるる懺悔の刃となる種類のものである。何故ならば、君の感情は恐怖の一刹那に於て、正《まさ》しく君の肋骨の一本一本をも数へ得るほどの鋭さを持つてゐるからだ。
 然しこの剃刀は幾分君の好奇な趣味性に匂づけられてゐる事もほんとうである。時には安らかにそれで以て君は君の薄い髯を当《あた》る。

 清純な凄さ、それは君の詩を読むものの誰しも認め得る特色であらう。然しそれは室生君の云ふ通り、ポオやボオドレエルの凄さとは違ふ。君は寂しい、君は正直で、清楚で、透明で、もつと細かにぴちぴち動く。少くとも彼等の絶望的な暗さや頽廃した幻覚の魔睡は無い。宛然凉しい水銀の鏡に映る剃刀の閃めきである。その鏡に映るものは真実である。そして其処には玻璃製の上品な市街や青空やが映る。さうして恐る可き殺人事件が突如として映つたり、素敵に気の利いた探偵が走つたりする。

 君の気稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢《きやしや》でこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根の細《こま》かな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛の尖《さき》のイルミネエション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めてゐる。

「詩は神秘でも象徴でも何でも無い。詩はただ病める魂の所有者と孤独者との寂しい慰めである。」と君は云ふ。まことに君が一本の竹は水面にうつる己が影を神秘とし象徴として不思議がる以前に、ほんとうの竹、ほんとうの自分自身を切に痛感するであらう。鮮純なリズムの歔欷《すすりなき》はそこから来《く》る。さうしてその葉その根の尖《さき》まで光り出す。

 君の霊魂は私の知つてゐる限りまさしく蒼い顔をしてゐた。殆ど病み暮らしてばかりゐるやうに見えた。然しそれは真珠貝の生身《なまみ》が一顆小砂に擦《す》られる痛さである。痛みが突きつめれば突きつめるほど小砂は真珠になる。それがほんとうの生身《なまみ》であり、生身から滴《したた》らす粘液がほんとうの苦しみからにじみ出たものである事は、君の詩が証明してゐる。

 外面的に見た君も極めて痩せて尖つてゐる。さうしてその四肢《てあし》が常に鋭角に動く、まさしく竹の感覚である。而も突如として電流体の感情が頭から足の爪先まで震はす時、君はぴよんぴよん跳ねる。さうでない時の君はいつも眼から涙がこぼれ落ちさうで、何かに縋りつきたい風である。
 潔癖で我儘なお坊つちやんで(この点は私とよく似てゐる)その癖寂しがりの、いつも白い神経を露はに顫へさしてゐる人だ。それは電流の来ぬ前の電球の硝子の中の顫へてやまぬ竹の線である。

 君の電流体の感情はあらゆる液体を固体に凝結せずんばやまない。竹の葉の水気が集つて一滴の露となり、腐れた酒の蒸気が冷《つめ》たいランビキの玻璃に透明な酒精の雫を形づくる迄のそれ自身の洗練はかりそめのものではない。君のセンチメンタリズムの信条はまさしく木炭が金剛石になるまでの永い永い時の長さを、一瞬の間に縮める、この凝念の強さであらう。摩訶不思議なる此の真言の秘密はただ詩人のみが知る。

 月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面《ぢべた》に生きてゐるものは悲しい。

 ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる。

 萩原君。
 何と云つても私は君を愛する。さうして室生君を。君は私より二つ年下で、室生君は君より又二つ年下である。私は私より少しでも年若く、私より更に新らしく生れて来た二つの相似た霊魂の為めに祝福し、更に甚深な肉親の交歓に酔ふ。
 又更に君と室生君との芸術上の熱愛を思ふと涙が流れる。君の歓びは室生君の歓びである。さうして又私の歓びである。
 この機会を利用して、私は更に君に讃嘆の辞を贈る。

  大正六年一月十日
[#ここから地付き]
葛飾の紫烟草舎にて
北原白秋
[#ここで地付き終わり]




 詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的は寧ろそれらの者を通じて、人心の内部に顫動する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 詩とは感情の神経[#「感情の神経」に傍点]を掴んだものである。生きて働く心理学[#「生きて働く心理学」に傍点]である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひ[#「にほひ」に傍点]といふ。(人によつては気韻とか気稟とかいふ)にほひ[#「にほひ」に傍点]は詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。順つてこのにほひ[#「にほひ」に傍点]の稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであつて、言はば香味を欠いた酒のやうなものである。かういふ酒を私は好まない。
 詩の表現は素樸なれ、詩のにほひ[#「にほひ」に傍点]は芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何|人《ぴと》もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全[#「完全」に傍点]に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考へる。
 あの病気にかかつた人間は非常に水を恐れるといふことだ。コップに盛つた一杯の水が絶息するほど恐ろしいといふやうなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
『どういふわけで水が恐ろしい?』『どういふ工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとつては只々不可思議千万のものといふの外はない。けれどもあの患者にとつてはそれが何よりも真実な事実なのである。そして此の場合に若しその患者自身が……何等かの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人に向つて説明しようと試みるならば(それはずゐぶん有りさうに思はれることだ。もし傍人がこの病気について特種の智識をもたなかつた場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯が行はれないとも限らない。こんな場合を考へると私は戦慄せずには居られない。)患者自身はどんな手段をとるべきであらう。恐らくはどのやうな言葉の説明を以てしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであらう。
 けれども、若し彼に詩人としての才能があつたら、もちろん彼は詩を作るにちがひない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では[#「人は一人一人では」に傍点]、いつも永久に[#「いつも永久に」に傍点]、永久に[#「永久に」に傍点]、恐ろしい孤独である[#「恐ろしい孤独である」に傍点]。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいへ、我々は決してぽつねん[#「ぽつねん」に傍点]と切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異つて居る。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもつて居るのである。この共通[#「共通」に傍点]を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。この共通[#「共通」に傍点]を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生れるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 詩は一瞬間に於ける霊智の産物
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