。その範疇といふのは、単に感覚や気分だけで、自然人生を趣味的に観照するのである。日本の詩人等は、昔から全く哲学する精神を欠乏して居る。そして此処に詩人と言ふのは、小説家等の文学者一般をも包括して言ふのである。
ニイチェは詩人である。何よりも先づ詩人である。しかしながら彼のポエジイには、多くの深遠な思想や哲学が含まれて居る。その内容を理解し得ないでは、ニイチェの詩を感情し得ない。しかも彼の思想や哲学やは、学問する頭脳では理解し得ず、哲学する精神によつてのみ理解されるのである。その哲学する精神を欠いた日本の詩人や文学者にとつて、ニイチェが不可解なのは当然と言はねばならぬ。日本の詩人や文学者は、動物のやうに感覚がよく発育して居る。どんな深遠な美の秘密でさへも、いやしくも感覚される限りに於て、すぐに本質を嗅ぎつけてしまふ。彼等は全く動物の叡智を持つてる。その不可思議な独特の叡智によつて、彼等はボードレエルを嗅ぎつけ、ドストイェフスキイを嗅ぎつけ、象徴派の詩を嗅ぎつけ、自然主義の文学を嗅ぎつけた。しかし流石にその智慧だけでは、ニイチェを嗅ぎつけることが出来ないのである。
ニイチェはその哲学
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