ニイチェに就いての雑感
萩原朔太郎

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《》:ルビ
(例)幸福《さいはひ》

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 ニイチェの世界の中には、近代インテリのあらゆる苦悩が包括されてゐる。だれでも、自分の悩みをニイチェの中に見出さない者はなく、ニイチェの中に、自己の一部を見出さないものはない。ニイチェこそは、実に近代の苦悩を一人で背負つた受難者であり、我々の時代の痛ましい殉教者であつた。その意味に於て、ニイチェは正しく新時代のキリストである。耶蘇キリストは、万人の罪を一人で背負ひ、罪なくして十字架の上に死んだ。フリドリヒ・ニイチェもまた、近代知識人の苦悩を一人で背負つて、十字架の上に死んだ受難者である。耶蘇と同じく、ニイチェもまた自己が人類の殉教者であり、新時代の新しいキリスト(救世主)であることを自覚して居た。それ故にこそ、彼の最後の書物に標題して、自ら悲壮にも Ecce homo(この人を見よ)と書いた。Ecce homo とは、十字架に書きつけられた受難者キリストの標語であつた。ニイチェの意味に於ては、それがキリストに叛逆する標語であつた。あの中世紀の魔教サバトの徒は、耶蘇とキリスト教とを冒涜する目的から、故意に模擬の十字架を立てて裸女を架け、或は幼児を架けて殺戮した。反キリストの詩人ニイチェの意味に於て、Ecce homo がまた同じく、キリスト教への魔教的冒涜を指示してゐるにちがひない。(彼は常にさうした辛辣な反語を好んだ。)にもかかはらず、ニイチェこそは新しい時代の受難者、耶蘇キリストにまちがひなかつた。

 ニイチェの著書は、おそらく人間の書いた書物の中で、最も深遠で、且つ最も難解なものの一つであらう。その深遠な理由は、思想が人間性の苦悩の底へ、無限に深くもぐりこんで抜けないほどに根を持つて居るのと、多岐多様の複雑した命題が、至るところで相互に矛盾し、争闘し、容易に統一への理解を把握することができないこと等に関聯して居る。ニイチェほどに、矛盾を多分に有した複雑の思想家はなく、ニイチェほどに、残忍辛辣のメスをふるつて、人間心理の秘密を切りひらいた哲学者はない。ニイチェの深さは地獄に達し、ニイチェの高さは天に届く。いかなる人の自負心をもつてしても、十九世紀以来の地上で、ニイチェと競争することは絶望である。
 ニイチェの著書は、しかしその難解のことに於て、全く我々読者を悩ませる。特に「ツァラトストラ」の如きは、片手に註解本をもつて読まない限り、僕等の如き無識低能の読書人には、到底その深遠な含蓄を理解し得ない。「ツァラトストラ」の初版が、僅かにただ三部しか売れなかつたといふ歴史は、この書物の出版当時に於て、これを理解し得る人が、全独逸に三人しか居なかつたことを証左して居る。彼の著書の中で、比較的初学者に理解し易いと言はれ、したがつて又ニイチェ哲学の入門書と言はれるアフォリズム「人間的な、あまりに人間的な」でさへも、相当に成育した一般の文化常識と、特に敏感な詩人的感覚とを所有しない読者にとつては、決して理解し易い書物ではない。
 ニイチェの理解に於ける困難さは、彼の初期に於ける少数の著書論文(悲劇の出生など)を除いて、その後の者が多くアフォリズムの形式で書かれて居ることにある。彼がこの文章の形式を選んだのは、一つには彼の肉体が病弱で、体系を有する大論文を書くに適しなかつた為もあらうが、実にはこの形式の表現が、彼のユニイクな直覚的の詩想や哲学と適応して居り、それが唯一最善の方法であつたからである。アフォリズムとは、だれも知る如くエッセイの一層簡潔に、一層また含蓄深くエキスされた文学(小品エッセイ)である。したがつてそれは最も暗示に富んだ文学で、言葉と言葉、行と行との間に、多くの思ひ入れ深き省略を隠して居る。即ち言へば、アフォリズムはそれ自ら「詩」の形式の一種なのである。(したがつて西洋の詩人たちは、独りニイチェに限らず、グウルモンでも、ジャン・コクトオでも、ボードレエルでも、ヴァレリイでも、すべて皆アフォリズムを書いてる。それは正しく「詩人の文学」なのである。)
 アフォリズムは詩である。故にこれを理解し得るものも、また詩人の直覚と神経とを持たねばならない。そこでニイチェを理解するためには、読者に二つの両立した資格が要求される。「詩人」であつて、同時に「哲学者」であることである。純粋の理論家には、もちろんニイチェは解らない。だが日本で普通に言はれてるやうな範疇の詩人(彼等は全く没思想である)にも、また勿論ニイチェは理解されない。だがその二つの資格
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