人の熱した右手の中で、死にかかった鵞鳥《がちょう》のようにびくびく[#「びくびく」に傍点]していた。夫人はそいつを引きずり倒して、鼻先の皮がむけるまで、床の上へ惨虐《ざんぎゃく》にこすり付けた。
「ご覧なさい!」
夫人は怒鳴った。
「此所に猫がいるんだ。」
それから幾度も繰返して叫んだ。
「これでも見えないか?」
おそろしい絶叫が一時に起った。婦人客は死ぬような悲鳴をあげて、恐怖から壁に張りつき、棒立ちに突っ立っていた床にずり倒れた。婦人の方は殆んど完全に気絶していた。ただ一人、老哲学者の博士だけが、突然的の珍事に対して、手の付けようもなく呆然《ぼうぜん》と眺めていた。ウォーソン夫人の充血した眼は、じっと床の上の猫を見つめていた。その大きな気味の悪い黒猫は、さっきから久しい間、じっとそこに坐っており、音楽のように静かにしていた。その印象の烙《や》きつけられた姿は、おそらく彼女の生涯まで、どんなにしても離れがたく、執拗に生きてつきまとっているように思われた。「今こそ!」と彼女は考えた。「こいつを撃ち殺してしまわねばならない!」
それから書卓の抽出《ひきだし》を開け、象牙《ぞうげ》
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