こんわく》してしまった。実証されてる事実として、此所にはどんな人間も這入って来ず、猫でさえも、決して外部から入り込んだものではないのだ。しかも奇怪のことには、その足跡を残さぬ猫が、ちゃんと目前の床に坐り込んでいるではないか。今、此所に猫がいるというほど、それほど確かな事実はない。しかも魔法の奇蹟でない限り、この固く閉めこんだ室の中に、一つの足跡も残さずして、猫がいるという道理はないのである。
夫人は理性を投げ出してしまった。それでもなお、もっと念入りの注意の下に、翌日もまた同じ試験を試みてみた。だが結果は、依然として同じであり、しかもその翌日も、翌日も同じ気味の悪い黒猫が、同じ床の上に坐り込んでいた。そしてこの奇怪の動物は、彼女が窓を開けると同時に、いつもそこから影のように飛び去って行った。
とうとう夫人は、最後に或る計画を思いついた。猫がどこから這入ってくるのかを見定めるため、扉《ドア》の蔭にかくれていて、終日鍵穴から覗《のぞ》いてみようと考えた。翌日、彼女は出勤を休んだ。そしていつもの通り、窓にすっかり錠をおろし、戸口に一脚の椅子を持ち出した。それから扉を閉め、椅子を鍵穴のところに持って行って、一秒の間も油断なく、室内を熱心に覗いていた。朝から午後まで長い時間が経過した。それは彼女の緊張した注意力には、ひどく苦しい時間であり、耐えられないほどの長い時間であった。ともすれば彼女は、注意力の弛緩《しかん》からして、他のことを考えてぼんやりしていた。彼女は時々、胸の隠衣《かくし》から時計を出して針の動くのを眺めていた。すべて長い時間の間、室内には何事も起らなかった。夫人はまた時計を出した。その時丁度、針が四時五分前を指していたので、うたた寝から醒めた人のように、彼女は急に緊張した。そして再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が坐っていた。しかもいつもと同じ位地に、同じ身動きもしない静かな姿勢で。
全くこの事実は、超自然の不思議というより外、解決のできないことになってしまった。ただ一つだけ解ってるのは、午後の四時になる少し前に、どこからか、どうしてか解らないが、とにかく一疋《いっぴき》の大きな黒猫が、室内に現われてくるという事実であった。夫人はもはや、自分の認識を信用しなくなってしまった。すべてやるだけの手段を尽し、疑い得るだけの実験を尽してし
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