る人が多くなつた。例へば高倉テル氏や矢田※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]雲氏など。)何故に彼等は、この場合に「は」を「わ」と書くのであらうか。かつて或る座談會で、僕はこの疑問を土岐善麿氏に質問したら、言語をその「發音通りに書く」といふ、ローマ字運動の原則に基づくのだと説明された。しかし「花は咲く」とか「僕は嫌ひだ」とかいふ場合の「は」が、果して實際に「わ」と發音されて居るのだらうか。この場合の正しい發音はいかに考へても HA の外になく、斷じて WA ではない筈である。故にこれを日常語で會話する時、その HA の H がサイレントとなつて省略され、A だけが後に殘つて、普通の聽覺上には「僕ア嫌ひだ」「俺ア厭だ」といふ風に聽えるのである。もしこれが WA であつたら、いかに音便に轉化しても、W の省略される筈がなく、「僕ア」「俺ア」といふ發音の生ずるわけがないのである。かの所謂文章語と稱するものは、日常口語の音便的に轉化したものを、さらに藝術的に薫練した言語であると言はれてゐるが、その文章語では、上例の「花は咲き鳥は鳴く」を、「花咲き鳥鳴く」といふ
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