支那の漢字を輸入したのは、必ずしも問責さるべき罪ではなかつた。しかしそれと同時に、漢語の正しき發音と韻律を輸入せず、日本化した無韻のデタラメで和讀したのが、國語の混亂と不便を招いた原罪だつた。特に明治以來、その無韻の漢字と漢語で、むやみに西洋の新文明を飜譯したので、今日の如き收攬しがたい状態になつたのである。
 ローマ字論者と假名文字論者は、かうした日本語の不便と混亂を整理するため、必要の要求に迫られて立つたところの、一種の「文明改造論者」である。もちろん彼等の意志は、上述のことの外にも、象形文字の常習的困難を避け、日本語を音標文字化することによつて、智識と文化の普及的能率を擧げようとする實利主義にも存するだらうが、同時にこの實利主義は、國語の純粹性を守らうとする別途の意志とも、必然の關係で不離に結びついて居るのである。ローマ字や假名文字を使用すれば、今日亂用されてる如き飜譯漢語――耳で聽いて意味がわからず、文字や印刷によつてのみ、視覺から表象されるやうな言語――は勿論「製絲」「製紙」「生死」「制止」「靜止」の如き、異義同音の錯亂を伴ふ言語は、必然的に廢滅されるか、もしくは支那語の四聲
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