これならばラヂオも仲々善いものだ。前に悪い印象を受けたのは、拡声機のラツパで聴いた為であることが、ここに於て始めてわかつた。それ以来、往来に立つて聴いてゐる人を見ると、何だか憐れに思へてならない。ラヂオは受話機で聴くに限るやうだ。

 僕がラヂオを歓迎するのは、しかし単なる好奇心ばかりでなく、他に重大な理由があるからだ。元来僕は、美的教養のない人間であるために、趣味といふものを殆んど持たない、美術は全く解らず、芝居も厭ひだし、寄席は尚イヤだし、活動写真といふものも、本当には面白いと思つてゐない。ただ僕の好きなものは、唯一の音楽あるばかりだ。それも義太夫や端歌の如き、日本音楽はさらに解らず、ただ西洋音楽が好きなだけだ。これも「解る」といふ方でなく、気質的に「好き」といふだけである。それで僕の生活的慰楽は、時々諸方の音楽会に出かける行事であるが、この音楽の演奏会といふ奴が、実にまた不愉快な気分のものである。演奏会に於ける、あの一種特別の空気、妙に厳粛になつて、悪がたく神経質になつてる聴衆。へんに尊大ぶり、芸術家ぶつた演奏者。開演中の息づまるやうな空気! とても不愉快だ。そして解りもしないく
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング