りにやつてしまふのである。少々は文の筋が通らなくても、話の関係が変でもそんな事には頓着しないやり方である。それは則ち気分に依つて訳すので、これを称して気分訳とか云ふさうである。その例は私があげるまでもあるまい、随分沢山にあつてすでに読者の十分に承知して居られる処であると思ふ。今一つの方式はそれとは反対の、逐字訳である、一語一句も忽かにせず、原文の通りに訳するのである、さうして出来上つたものは、通例何が書いてあるか一向に解らない、解らない筈である、訳者その人にも解つては居ないのであるから、併し翻訳としてまことに忠実なもので、これ以上は望み難いのである。例をあげると面白いのであるが、前の方式のにしてもこの方式のにしても、うつかり書いて叱られるといけないから、かけかまひのない処を云つて見るが、或る処でグロオワアムと言ふ字を蠅《はい》に似た虫で夜後尾の方が光るものだと、先生が言つたら、生徒の一人が、先生それは蛍ではありませんかと言つたといふ話があるが、第二の式の翻訳はこの呼吸で行くのである。ヰイク・デイスなら週間の日、インゼ・ロング・ランなら長い走りの内にと言つた具合に行くのである。この両式は尤も大事なやり方で、今日の多量生産がこの式で行くのかどうか私は知らないが、これで行くのが尤も容易で都合の良いやり方である事を私は断言して置く。
これは本題の翻訳製造会社とは関係のない事であるが、序《つい》で故一言して置かうと思ふ事がある、それは日本の文学を西洋に訳して嬉れしがつて居る人の事である。私は日本の文学の卓越して居る事に異議を唱へるものではない。外国人がそれに感心して、それを自国語に翻訳するのに異議を抱くものでもない。併し日本人自からが自分の文学を他国に訳して得々たるのは甚だ可笑しいと思ふ。可笑しい計りではない、或る意味に於ては吾が恥辱でもあると思ふ。その事自体が国辱ではないかとさへ思ふ、少くとも事理をわきまへた事ではないと思ふ。西洋人がさういふ翻訳をするのを助けて、それを完成さすなら結構な事であるが、自から進んでそれをやり、却つて西洋人の助をかりてそれを公《おほやけ》にするなんていふのは、少し馬鹿気た事と思ふ。かりに一人のイギリス人があつて、それが日本語に精通して居たといふので、シエイクスピアの翻訳を企てたらどんなものであらう。一寸《ちよつと》考へられない馬鹿気た話である。
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