た。蓋《けだ》し斯様《かやう》な翻訳の大量生産はさういふ風に資本家と文人とに幸福を与へるのみならず、また世界の大思想大文芸を、極めて低廉《ていれん》な値を以て万象に頒与《はんよ》するのであるから、文化のためにも至大な貢献であるに違ひない。天の恵《めぐみ》は二重である、とはシエイクスピアの句にあるが、この事業たるや、かくして三重の恵となつて居《を》るのであるから、豈《あ》に大したものではなからうか。果して天下をあげてかくの如《ごと》き挙に賛意を表してゐる、上《かみ》は廊堂の大官より下は陋巷《ろうかう》の文士に至るまで、みな高見をのべてその徳をたゝへて居る。いやまだその恵に与つて居るものがも一ツある、新聞紙がそれである、売薬品の広告以外、翻訳ものの広告が、どれほど新聞社を益した事であらう。これみな国家の慶事にあらずして何であらう。
エリザベス朝にイギリスがイタリヤの文芸を取り入れた時も、それが十八世紀の初めにフランス文学から影響された時も、レツシンクであつたか、ラインの彼岸から来るものはみな謳歌されると云つて、フランス大学の模倣を慨嘆したドイツに於ても、吾が日本の今日ほど外国文学の悦ばれた時代はないであらう。咋今一円本と称して、世間から歓迎されて居るものは、大半翻訳文学である。世界文学とか、世界大思想とか、近代戯曲とか、近代……とかすべて翻訳でないのは殆んどなく、翻訳と銘を打つてないものでも、内容は翻訳であつて、正直に翻訳と看板を出したものよりも、さらに甚しい翻訳であつたりする。私はどうしてこんなに簡単に、こんなに容易に、社会を益し書店を益し、文人を益する、都合の良い事業を、人がこれまで思ひつかなつたかを怪むものである。人は或は文芸の商品化を難ずるかも知れないが、文芸の事は云はぬとして、翻訳に至つては、何もそんなにやかましく云ふ筋のものではない、もと/\商品であるのではないが、初めに云つたやうに器械で拵へるよりも容易に製造しうるのではないか、これが商品でなくて何であらう私は斯ういふ事業に依つて人々が利益を得、同時に世間に利益を与へる事を以《もつ》て尤《もつと》も近代的な、また最も賢明なる事業と考へて居る。只気の弱いものは、こんなに洪水のやうに外国文学が流れ込んで来て、果たして良いものかと心配するものもある。前に云つたやうに古往今来世界の何処《どこ》に於ても、これほど外
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