よ》び、伊豆の代官|江川《えがは》氏の手附《てづき》の河野鐵平《かうのてつへい》といふ人をも召《めし》た。其外にも開墾水理に明るい人が幾らもやつて來た。兎に角、まだ其頃までは幕府の勢力があつたので其御用となることは、さういふ人達に取つては非常な榮譽であつたのである。それでわざ/\遠いところから來て呉れた。
 さて小栗|總州《そうしう》、木城安太郎を兩大將に、それに附屬する我々に至るまで――私《わたくし》はまだブランサンであつたが、一寸《ちよつ》とお目附方の息子といふので、參謀官の見習ひといふやうなところで居た。――で或る時は庄屋|名主《なぬし》五人組などいふ人物と引合ふ、或る時は神主や和尚さんとも談判する。十一月の廿七日かに大山《おほやま》の(相州)後《うし》ろの丹波山《たんばやま》の森へ入《はい》つた時などは雪中《せつちう》で野宿同樣な目をした事もある。隨分|酷《ひど》い目に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野《かうづけ》の一部を歩いて、慶應《けいおう》二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方《ぢかた》の事で、秣場《まつぢやう》を潰《つぶ
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