男に呼ばれて暖爐の前に肩を突き合せながら手をあぶつた。みのるはこんな時義男がいぢけきつて、自分の貧しさをどん底の零落において情なく眺める癖のある事を知つてゐた。義男がからつぽの樣な瞼を皺つかして、頬の肉にだらりとした曲線を描きながらぼんやりと暖爐の火を見詰めてゐる義男の身體を、みのるは自分の肩でわざと押し轉がす樣に突いた。さうして義男の顏を横に見ながら、
「見つともない風をするもんぢやないわ。」
と云つて笑つた。義男は自分の見窄《みすぼ》らしさをからかつてゐる樣な女の態度に反感を持つて默つてゐた。こんな塲合にも自分だけは見窄らしい風はしまいといふ樣に白粉くさい張り氣を作つて、自分の情緒を燕脂《えんじ》のやうに彩らせやうとしてゐる女の心持がいやであつた。義男はふと、みのると一所になる前まで僅かの間同棲して暮らした商賣上りのある女の事を思ひだした。その女は毎晩男の爲めに酌の相手こそはしたけれども、貧しい時には同じ樣に二人の上を悲しんで、そうして仕事に疲れた義男を殆んど自分の涙で拭つてくれるやうな優しみを持つてゐた。浮いた稼業をしてゐた女だけども、みのるの樣に直きと、
「何うにかなるわ。」
と云ふ樣な捨て鉢な事は云つた事がなかつた。
「どうしたの。默つて。」
 みのるは自分の身體をゆら/\と搖らつかせながら、其の動搖のあほりを義男の肩に打つ衝けては笑つた。
「僕は今日不快な事があるんだ。」
 義男は暖爐の前に脊を屈めながら斯う云つた。
「なんなの。」
 義男の言葉は欝した調子を交ぜてゐたのに反して、みのるの返事は何處までも紅の付いた色氣を持つて浮いてゐた。
「××にね。僕の作の評が出てゐたんだ。」
「なんだつて。」
「陳腐で今頃こんなものを持ち出す氣が知れないつて云ふのだ。」
 みのるは聲を出して笑つた。
「仕方がないわね。」
「仕方がない?」
 義男は塲所も思はずに大きい聲を出してみのるの顏を睨んだ。みのるは默つて後を振返つたが、人のゐない室には斜《はす》に見渡したみのるの眼に食卓の白いきれが靡《なび》いて見えたばかりであつた。そうして、それ/″\に食卓の上に位置を守つてゐる玻璃器にうつつた灯の光りが、みのるの今何か考へてゐる心の奧に潜かに意を寄せてゐる微笑の影のやうにみのるに見えた。みのるは顏を眞正面《まとも》に返すと一人で又笑つた。
「君も然う思つてるんだね。」
「然うだわ。」
 義男の腫れぼつたい瞼を一層縮まらした眼と、みのるの薄い瞼をぴんと張つた眼とが長い間見合つてゐた。
 みのるはその作を原稿で讀んだ時、
「おもしろいわ。結構だわ。」
と云つて義男の手に返したのであつた。義男が自分の仕事に自分だけの價値を感じてるだけ、みのるも相應に自分の仕事に心を寄せてゐるものと思つてゐた。それが急に冷淡な調子で、世間の侮蔑とその心の中を鳴り合せてゐる樣な餘所餘所《よそよそ》しい態度を、みのるが見せたといふ事が義男には思ひがけなかつた。經濟の苦しみに對する義男への輕薄な女の侮蔑が、こんなところにもその迸《ほとば》しりを見せたものとしきや義男には解されなかつた。
「君は隨分同情のない事を云ふ人だね。」
 しばらくして斯う云つた義男の眼は眞つ赤になつてゐた。給仕が持つて來た皿のものをみのるは身體を返して受取りながら何にも云はなかつた。

       三

「君はそんなに僕を下らない人間だと思つてゐるんだね。」
 二人は停車塲から出ると、眞つ闇な坂を何か云ひ合ひながら歩いてゐた。硝子に雨の雫を傳はらしてゐる街燈の灯はまるで暗い人間の隅つこに泣きそべつてゐる二人の影のやうに見えてゐた。
 二人が生活の爲の職業も見付からず、文學者としての自分の小さい權威も、何年か間《かん》の世間との約束からだん/\紛《はぐ》れて了つた事が義男にはいくら考へても情けなかつた。そうして自分の多年の仕事に背向いてゆく世間が憎いと一所に、その背向いた中の一人がみのるだつたと云ふ事にも腹が立つた。一人が一人に向つて石を抛《なげう》てば相手の女は抛つた方へその心を媚びさせて行くのだと思ふと、義男はあらゆる言葉で目の前の女を罵り盡しても足りない氣がした。義男はさつきのみのるの冷笑がその胸の眞中《まんなか》を鋭い齒と齒の間にしつかりと噛《くは》へ込んでる樣に離れなかつた。
「君はよくそんな下らない人間と一所にゐられるね。價値のない男をよく自分の良人だなんて云つてゐられるね。馬鹿にしてる男のまへでよく笑つた顏をして濟ましてゐられる。君は賣女より輕薄な女だ。」
 義男は斯う云ひ續けてずん/″\歩いて行つた。みのるは默つて後から隨いて行つた。みのるの着物の裾はすつかり濡れて、足袋と下駄の臺のうしろにぴつたり密着《くつつ》いては歩行《あゆみ》のあがきを惡るくしてゐた。早い足の義男には
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