ゐる樣にみのるに聞こえた。
義男が居ない間に、みのるは一人して箸を取る氣になれないので、今日も外に出てゐた義男と同じやうに何も食べずにゐた。それで義男の言葉を聞くと急にみのるは食事といふ事にいつぱいの樂しみをつながれて、臺所へ出て行つて働き初めた。膳の支度が出來るまで義男は今の樣子の儘で動かなかつた。
二
「僕は到底駄目な人間だね。僕にやとても君を養つてゆく力はないよ。」
默つて食事を濟ましてしまつた義男は、箸をおくと然う云つてまた横になつた。それに返事をしなかつたみのるは、膳を片付けてしまふと箪笥の前に行つて抽斗《ひきだし》から考へ/\いろ/\なものを引出して其所に重ねた。
「おい。行つてくるの?」
「えゝ。だつて何うする事も出來ないもの。」
みのるは包みを拵へてから、平常着《ふだんぎ》の上へコートを着て義男の枕許で膝の紐を結んだ。
「ぢや行つてきます。一人だつていゝでせう。淋しかないでせう。」
みのるは膝を突いて義男の額を撫でた。義男の狹い額は冷めたかつた。
「僕も一緒に行く。」
「ぢや着物を着代へなくちや。洋服ぢやおかしいから。」
義男が洋服を脱いでゐる間、みのるは鏡の前へ行つて、頸卷《えりまき》をしてくると大きい包を抱へて立つてゐた。そうして自分一人なら車で行つて來てしまふのにこの人と一緒だと雨の中を歩かねばならないと思つたが、口に出しては何も云はなかつた。
みのるは重い包みを片手に抱へたまゝ戸締りをしたり、棚から傘を下したりした。包が邪魔になるとそれを座敷の眞中に置き放しにして來て、在所《ありか》を忘れて又|彼方此方《あちらこちら》を探したりした。
二人は一本づゝ傘を手にして庭の木戸から表に廻つた。
「留守番をしてゐるんだよ。お土産を買つて來て上げるからね。」
雨のびしよ/\と雫を切らしてゐる暗い庭の隅に、犬の白い姿を見付けるとみのるは聲をかけた。犬は二人して外に出る時はいつも家の中に閉ぢ籠められておくことに馴らされてゐた。怜悧《りこう》な小犬は二人の出て行く物音に樣子を覺《さと》つて、逐ひ籠められないうちに自分から椽の下にもぐり込まふとしてゐるのであつた。
門をしめて外に出てからも、みのるはひつそりとしてゐる犬の樣子がいつまでも氣に掛つて忘られられなかつた[#「忘られられなかつた」はママ]。少し歩いてくると義男は氣が付いたやうにみのるの手から包みを取らうとした。
「持つてつてやるよ。」
雨の停車塲は遲れた電車を待合せる人が多かつた。つい今しがた降り出した雨だけれども、土も木も人の着物も一樣に濕々《じめ/″\》した濡れた匂ひを含んで、冷めたい空氣の底にひそかに響きを打つてゐた。みのるは包みを外套の下に抱へてゐる義男を遠くに放して、その傍に寄らずにゐた。電車に乘つてからも二人は落魄した境涯にあるやうな自分々々を絶えず心の中で眺め合ひながら、多くの他人の眼の集つた灯の明るい電車の中で、この夫婦といふ縁のある顏と顏を殊更合はせる事を避けてゐた。みのるは時々義男の外套の下から風呂敷包みの頭が食み出てゐるのを見た。前の狹い外套の裾は膝の前で窮屈そうに割てゐた。みのるは顏を背向けると、その見窄らしい義男の姿を心に描いて電車の外の雨に濡れてゐる灯を見詰めてゐた。
自分を憫れんでゐるやうな睫毛の瞬きが、ふるえて落ちる傘の雫の蔭にちら/\しながら、みのるは仲町のある横丁から出て來た。角の商店の明りの前に洋傘を眞つ直ぐにして立つて待つてゐた義男の傍に來た時、みのるの顏は何所となく囁き笑ひをしてゐた。
「うまくいつた?」
「大丈夫よ。」
嵩張つた包みが二人の間から取れて、輕い紙幣が女のコートの衣兜《かくし》に殘つたといふ事が、二人を浮世の人間並みらしい感じに戻らせた。つい眼の前をのろ/\と横切つて行く雫を垂らした馬鹿氣て大きな電車を遣り過ごす間《うち》、今まで何所かへ押やられてゐた二人の間の親しみの義務を、この間《ま》にお互の中に取り戻しておかなくてはならないといふ樣な顏付きで、みのるは男の顏を見詰めてわざと笑つた。
「なんでもいゝや。」
義男も腮《あご》の先きを片手で擦《こす》りながら笑つて云つた。けれども義男の眼にはみのるの笑顏が底を含んでるやうな鋭い影を走らしてゐたと思つていやな氣がしたのであつた。
「寒くつて。何か飮まなくちや堪らないわ。」
みのるは義男の先きになつて歩いた。向側を見ると何の店先も雨に曇つて灯が濡れしほたれてゐた。番傘が通りの灯影を遮つてゆく――泥濘《ぬかるみ》の路に人の下駄の跡や車の轍の跡をぼち/\と光りを帶たはね[#「はね」に傍点]が飛んでゐた。
二人は區役所の前の小さい洋食屋へ入つて行つた。
室には一人も客はなかつた。鏡の前に行つて顏を映して見たみのるは、義
前へ
次へ
全21ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田村 俊子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング