まうばかりさ。」
 義男はぽんと女を突き放す樣に斯う云つた。みのるが何も爲《し》得ないと云ふ見極めを付けると一所に、義男には直ぐ明らかな重荷を感じずにはゐられなかつた。義男にしては二人の間を繋いでるものは愛着ではなかつた。力であつた。自分に持てない力を相手の女が持ち得るものでなければ一所には居たくなかつた。女の重荷を、殊にみのるの樣な我が儘の多い女の重荷を引|摺《ず》つてゐては、自分の身體がだん/\に人世の泥沼《ぬま》の中に沈み込んで行くばかりだと思つた。義男はもうこの女を切り放さなければならなかつた。――斯う云ふ時には例《いつ》も手強《てづよ》い抵抗をみのるに對して見せ得る男であつた。直ぐにその塲からでも何方《いづれ》かゞこの家を離れゆくと云ふ氣勢《けはい》をはつきりと見せ得る男であつた。そこには男が特にみのる一人に對して考へてゐる樣な愛なぞは微塵も挾まれなかつた。
「書くわ。仕方がないもの。」
 みのるの眼にはもう涙が浮いてゐた。さうして其邊に取り散らかつた原稿を纒《まと》めてゐた。

       九

 みのるは唯|眞驀《ましぐら》に物を書いて行つた。自分を鞭打つやうな男の眼が多くの時間みのるの机の前に光つてゐた。みのるはそれを恐れながら無暗《むやみ》と書いて行つた。蚊帳の中にランプと机とを持ち込んで暫時《しばらく》死んだ樣に仰向に倒れてゐてから、急に起き上つて書く事もあつた。朝から夕まで家の中に射し込んでゐる夏の日光を、みのるは彼方此方《あちこち》と逃げ廻りながら隅の壁のところに行つてその頭をさん/″\打つ突けてから又書き出す事もあつた。
 さうして出來上つたのが締切りの最後の日の午後であつた。義男はそれにみのるの名を書き入れてやつて、小包にしてから自分で郵便局へ持つて行つた。みのるはその汗になつた薄藍地の浴衣の袂で顏を拭ひながら、この十餘日の間の自分を振返つて見た。男の姿に追ひ使はれた筆《ペン》の先きには、自分の考へてゐる樣な美しい藝術の影なぞは少しも見られなかつた。唯男の處刑を恐れた暗雲《やみくも》の力ばかりであつた。そのやみくもな非藝術な力ばかりで自分の手には何が出來たらう。然う思ふとみのるは失望しずにはゐられなかつた。
 それは八月の半ばを過ぎてからであつた。ある朝その日の新聞の上に、ふとみのるの、心にとまつた記事があつた。
 みのるは義男が勤めに出て行つてから、[#「から、」は底本では「から。」]家の入り口の方へ釘を差しておいて自分も外に出た。[#「出た。」は底本では「出た、」]さうして廣小路へ來ると其所から江戸川行の電車に乘つた。
 色の褪めた明石の單衣を着て、これも色の褪めた紫紺の洋傘《かうもり》を翳《さ》したみのるの姿が、しばらくすると、炎天の光りに射られて一帶に白茶けて見える牛込の或る狹い町を迷つてゐた。敷き詰めた小砂利の一とつ/\に兩抉《りやうぐ》りの下駄が挾まるのでみのるは歩き難《に》くて[#「歩き難《に》くて」はママ]堪らなかつた。その度に慟悸が打つて汗が腋の下を傳はつた。地面から裾の中へ蒸し込んでくる熱氣と、上から照りつける日光の炎熱とが、みのるの薄い皮膚《はだ》をぢり/\と刺戟した。みのるの顏は燃えるやうに眞つ赤になつてゐた。
 みのるは橋の角の交番で「清月」と云ふ貸席をたづねると、其所から江戸川|縁《べり》の方へ曲がつて行つた。清月はその通りの右側にあつた。舊《もと》は旗本の邸《やしき》でもあつたかと思ふ樣な構造をした古るい家であつた。みのるはその式臺のところに立つて、取次に出た女中に小山と云ふ人をたづねた。
 みのるは直ぐに奧に通された。がらん[#「がらん」に傍点]とした廣い座敷に、みのるは庭の方を後にしてこれから逢はうといふ人の出てくるのを待つてゐた。何所も開け放してありながら風が少しも通つてこなかつた。さうして日中の暑熱《あつさ》に何も彼もぢつと息を凝らしてる樣な暑苦しさと靜さが、その赤くなつた疊の隅々に影を潜めてゐた。みのるは半巾《はんけち》で顏を抑へながら、せつせと扇子を使つてゐた。
 煙草盆を提げながら小作りな男が奧の方から出て來てみのるの前に座つた。瞳子《ひとみ》の黒い瞼毛《まつげ》の長い眼が晝寢でも爲てゐた樣にぼつとりと腫れてゐた。よく大坂人に見るやうに物を云ふ時その口尻に唾を溜める癖があつた。笑ふと女の樣な愛嬌がその小さな顏いつぱいに溢れた。
 小山はみのるの名前は知らなかつたけれども義男の名前は知つてゐた。手に持つてるみのるの名刺を弄《いぢ》りながら、小山はみのると話をした。
 小山は自分たちの拵《こしら》へてる劇團に就いて口を切つた。それからこの前の一回の興行はある興行師の手で組織された爲に世間から面白くない誤解を受たりしたけれ共、今度の第二回は酒井や行田《ゆきだ》
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