んよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。」
 義男は突然《いきなり》、手の傍にあつた煙草盆をみのるに投げ付けた。
「少しも君は我々の生活を愛すつて事を知らないんだ。いやなら止せ。その云ひ草はなんだ。亭主に向つてその云ひ草はなんだ。」
 義男は然う云ひながら立上つた。
「そんな生活なら何も彼《か》も壞しちまへ。」
 義男は自分の足に觸つた膳をその儘蹴返すと、みのるの傍へ寄つて來た。みのるはその時ほど男の亂暴を恐しく豫覺した事はなかつた。「何をするんです。」と云つた金を張つたやうな細い透明なみのるの聲が、義男の慟悸の高い胸の中に食ひ込む樣に近くなつた時に、みのるは有りだけの力をその兩腕に入れて義男の胸を向ふへ突き返した。そうしてから、初めてこの男の恐しさから逃れるといふ樣な心持で、みのるは勝手口の方から表へ駈けて出た。

 外はまだ薄暮の光りが全く消えきらずに洋銀の色を流してゐた。殊更な闇がこれから墓塲全體を取り繞《めぐ》らうとするその逢魔《あふま》の蔭にみのるは何時までも佇んでゐた。ぢいん[#「ぢいん」に傍点]とした淋しさが何所からともなくみのるの耳の傍に集まつてくる中に、障子や襖を蹴破つてゐる樣な氣魂《けたゝま》しい物の響きが神經的に傳はつてゐた。
 然うして絹針のやうに細く鋭い女の叫喚《さけび》の聲がその中に交ぢつてゐる樣な氣もした。それが自分の聲のやうであつた。みのるの身體中の血は動いた儘にまだゆら/\としてゐた。何所かの血管の一部にまだその血が時々どんと烈しい波を打つてゐた。けれどもみのるは自分の心の脉《みやく》を一とつ/\調べて見る樣なはつきりした氣分で、自分の頭の上に乘しかゝつてくる闇の力の下に俯向いて、しばらく考へてゐた。さうして、その清水に浸つてゐる樣な明らかな頭腦《あたま》の中に、
「自分どもの生活を愛する事を知らない。」
と云つた義男の言葉がさま/″\な意味を含んでいつまでも響いてゐた。
 みのるは全く男の生活を愛さない女だつた。
 その代り義男はちつとも女の藝術を愛する事を知らなかつた。
 みのるはまだ/\、男と一所の貧乏《きうぼう》な生活の爲に厭な思ひをして質店《しちみせ》の軒さへ潜《くゞ》るけれども、義男は女の好む藝術の爲に新らしい書物一とつ供給《あてが》ふ事を知らなかつた。義男は小さな自分だけの尊大を女によつて傷づけられまい爲に、女が新らしい智識を得ようと勉める傍でわざとそれに辱ぢを與へる樣な事さへした。新らしい藝術にあこがれてゐる女の心の上へ、猶その上にも滴《したゝ》るやうな艶味《つや》を持たせてやる事を知らない義男は、たゞ自分の不足な力だけを女の手で物質的に補はせさへすればそれで滿足してゐられる樣な男なのだと云ふ事が、みのるの心に執念《しふね》く繰り返された。
「私があなたの生活を愛さないと云ふなら、あなたは私の藝術を愛さないと云はなけりやならない。」
 先刻《さつき》義男に斯う云つてやるのだつたと思つた時に、みのるの眼には血がにじんで來るやうに思つた。
 男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、それは到底一所のものではなかつた。義男の身にしたら、自分の生活を愛してくれない女では張合のない事かも知れない。毎日出てゆく義男の蟇《がま》口の中に、小さい銀貨が二つ三つより以上にはいつてゐた事もなかつた。それを目の前に見て上の空な顏をしてゐる事が出來るみのるは、義男に取つては一生を手を繋いでゆく相手の女とは思ひやうも無い事かも知れなかつた。
「二人は矢つ張り別れなければいけないのだ。」
 みのるは然う思ひながら歩き出した。初めて、凝結してゐた瞳子《ひとみ》の底から解けて流れてくる樣な涙がみのるの頬にしみ/″\と傳はつてきた。
 みのるの歩いてゆく前後には、もう動きのとれない樣な暗闇がいつぱひに押寄せてゐた。その顏のまわりには蚊の群れが弱い聲を集めて取り卷いてゐた。振返ると、その闇の中に其方此方《そちこち》と突つ立てゐる石塔の頭が、うよ/\とみのるの方に居膝《ゐざ》り寄つてくる樣な幽な幻影を搖がしてゐた。みのるは自分一人この暗い寂しい中に取殘されてゐた氣がして早足に墓地を繞《めぐ》つてゐる茨垣《ばらがき》の外に出て來た。
 其邊をうろついてゐたメエイが其所へ現はれたみのるの姿を見附けると飛んで來てみのるの前にその顏を仰向かしながら、身體ぐるみに尾を振つて立つた。突然この小犬の姿を見たみのるは、この世界に自分を思つてくれるたつた一とつの物の影を捉へたやうに思つて、その犬の體を抱いてやらずにはゐられなかつた。
「有
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