》ける樣な光りをその眼に漲らして義男の狹い額をぢろ/\と見初めると、義男は直ぐにその眼を眞つ赤にして、
「生意氣云ふない。君なんぞに何が出來るもんか。」
 斯う云つて土方人足が相手を惡口する時の樣な、人に唾でも吐きかけそうな表情をした。斯うした言葉が時によるとみのるの感情を亢ぶらせずにはおかない事があつた。智識の上でこの男が自分の前に負けてゐると云ふ事を誰の手によつて證明をして貰ふ事が出來やうかと思ふと、みのるは味方のない自分が唯情けなかつた。そうして、
「もう一度云つてごらんなさい。」
と云つてみのるは直ぐに手を出して義男の肩を突いた。
「幾度でも云ふさ。君なんぞは駄目だつて云ふんだ。君なんぞに何が分る。」
「何故。どうして。」
 ここまで來ると、みのるは自分の身體の動けなくなるまで男に打擲されなければ默らなかつた。
「あなたが惡るいのに何故あやまらない。何故あやまらない。」
 みのるは義男の頭に手を上げて、強ひてもその頭を下げさせやうとしては、男の手で酷《ひど》い目に逢はされた。
「君はしまひに不具者《かたは》になつてしまふよ。」
 翌《あく》る日になると、義男はみのるの身體に殘つた所々の傷を眺めて斯う云つた。女の軟弱な肉を振り捩斷《ちぎ》るやうに掴み占める時の無殘さが、後になると義男の心に夢の樣に繰り返された。
 それは晝の間に輕い雨の落ちた日であつた。朝早く澤山の洗濯をしたみのるはその身體が疲れて、肉の上に板でも張つてある樣な心持でゐた。軒の近くを煙りの樣な優しい白い雲がみのるの心を覗《のぞ》く樣にしては幾度も通つて行つた。初夏の水分を含んだ空氣を透す日光は、椽に立つてるみのるの眼の前に色硝子の破片を降り落してゐる樣な美しさを漲らしてゐた。何となく蒸し暑い朝であつた。みのるのセルを着てゐたその肌觸りが汗の中をちく/\してゐた。
 それが午後になつて雨になつた。みのるは干し物を椽に取り入れてから、又椽に立つて雨の降る小さな庭を眺めた。この三坪ばかりの庭には、去年の夏義男が植えた紫陽花《あぢさゐ》が眞中に位置を取つてゐるだけだつた。黄楊《つげ》の木の二三本に霰《あられ》のやうなこまかい白い花がいつぱいに咲いてゐるのが、隅の方に貧しくしほらしい裝ひを見せてゐたけれ共、一年の内に延びてひろがつた紫陽花の蔭がこの庭の土の上には一番に大きかつた。その外には何もなかつた。輕い雨の音はその紫陽花の葉に時々音を立てた。みのるはその音を聞き付けるとふと懷しくなつて其所に降る雨をいつまでも見詰めてゐた。
 義男がいつもの時間に歸つて來た時はもうその雨は止んでゐた。みのるは義男の歸つてからの樣子を見て、その心の奧に何か底を持つてゐる事に氣が付いてゐた。
「おい、君は何《ど》うするんだ。」
 みのるが夜るの膳を平氣で片付けやうとした時に義男は斯う聲をかけた。
「何故君は例の仕事をいつまでも初めないんだね。止すつもりなのか。」
 其れを聞くとみのるは直ぐに思ひ當つた。
 一週間ばかり前に義男は勤め先きから歸つてくると「君の働く事が出來た。」と云つて新聞の切り拔きをみのるに見せた事があつた。それは地方のある新聞でそれに懸賞の募集の廣告があつた。みのるがそれ迄に少しづゝ書き溜めておいた作《もの》のある事を知つてゐた義男は、それにこの規程《きてい》の分だけを書き足して送つた方が好いと云つてみのるに勸めたのであつた。
「もし當れば一と息《いき》つける。」
 義男は斯う云つた。けれどもみのるは生返事をして今日まで手を付けなかつた。それに義男がその仕事を見出した時はもう締めきりの期日に迫つてしまつた時であつた。その僅の間にみのるには兎ても思ふ樣なものは書けないと思つたからであつた。
「何故書かないんだ。」
 義男はその口を神經的に尖《とが》らかしてみのるに斯う云ひ詰めた。
「そんな賭け見たいな事を爲るのはいやだから、だから書かないんです。」
 みのるの例の高慢な氣《け》振りがその頬に射したのを義男は見たのであつた。
 みのるはその萬一の僥倖によつて、義男が自分の經濟の苦しみを免《のが》れ樣と考へてゐる事に不快を持つてゐた。この男は女を藝術に遊ばせる事は知らないけれども、女の藝術を賭博の樣な方へ導いて行つて働かせる事だけは知つてゐるのだと思ふと、みのるは腹が立つた。
「そんな事に使ふやうな荒れた筆は持つてゐませんから。」
 みのるは又斯う云つた。
「生意氣云ふな。」
 斯う義男は怒鳴りつけた。女の高慢に對する時の義男の侮蔑は、いつもこの「生意氣云ふな。」であつた。みのるはこの言葉が嫌ひであつた。義男を見詰めてゐたみのるの顏は眞つ蒼になつた。
「君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。」
「働かないとは云ひませ
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