井が頸元《えりもと》の寒そうな風をして入つて來る事もあつた。お互の挨拶の息が冷めたい空氣にかぢかんでる樣な朝が多くなつてゐた。
 行田も酒井もいつも朝早く定めた時刻までには出て來てゐた。そうして怠けた俳優たちがうそ/\集つてくるまで、二人は無駄な時間を空に費してゐる事が毎日の樣であつた。藝術的の氣分に緊張してゐるこの二人と、旅藝人のやうに荒んだ、統一のない不貞《ふて》た俳優たちとの間にはいつもこぢれ[#「こぢれ」に傍点]た紛雜《ふんさつ》[#ルビの「ふんさつ」はママ]が流れてゐた。酒井は殊にぽん/\と怒つて、藝人根性の主張をやめないその俳優たちを表面から責めたりした。酒井の譯したピネロの喜劇は全部この不統一な俳優たちの手で演じられる事になつてゐた。その稽古が少しもつまないと云つて、酒井は「ちつとも藝術品になつてゐない。然うてん/″\ばら/\では仕方がない。」と云つて一人でぢり/\してゐた。
 けれども演劇で飯を食べてるこの連中は、酒井などから一々臺詞にまで口を入れられる事に就いて、明らかな惡感《あくかん》を持つてゐた。俳優たちは沈默の反抗をそのふところ手の袖に見せて、酒井の小言の前で氣まづい顏をしてゐる事が多かつた。
「初めからのお約束ですから、少々氣に入らない事があつても一致してやつて頂かなけりや困ります。どうでせう皆さん。もう日もない事ですから一とつ一生懸命になつて臺詞を覺えて頂く譯には行きませんか。」
 酒井の傍に坐つた小山が、こんな事を云つて口に皺を寄せながら向ふに集まつた俳優たちを眺めてゐる事もあつた。
 その中で女優ばかりは誰も彼《か》も評判がよかつた。皆が舞臺監督の云ふ事をよく聞いて稽古を勵《はげ》んでゐた。
「こんなに女優が重い役をやると云ふのは今度が初めだから、一とつ思ひ切つた立派な藝を見せていたゞき度い。女優の技藝によつてこの新劇團の運命が定まるやうなものだと思つて充分に演《や》つて頂きたい。女優と云ふものも馬鹿に出來ないものだと云ふ事を今度の興行によつて世間へ見せて頂きたい。」酒井は斯う云つて女優たちを上手におだてた。
 その中にゐて、みのるには例の惡るい癖がもう初まつてゐた。自分の氣分がこの俳優の群れに染まないと云ふ事がすつかりみのるを演劇の執着からはなしてしまつた事であつた。みのるは芝居をする事がもう厭になつてゐた。そうして、何時もこの俳優
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